フェンリルのブログⅡ

小説とガーデニングが好きな変人のブログです

ペラドンナ~第五章~

「きゃーーーーッ!!!人が倒れてる!!!」
杉山恵子(すぎやまけいこ)は、血まみれで倒れている男を発見すると思わずそうさけんでいた。
マンションの横の植え込みのあたり。
そこに、黒いジャケットに黒いスラックスという身なりの男が一人倒れていた。
年齢はだいたい20代後半~30代前半ぐらいだろうか。
肩まで伸びた黒い髪。左耳に光る銀色のイヤリング。
そして、背中には銀色のナイフが深々と突き立っている。
これは"殺人だ"と恵子は即座に思った。
なぜなら、男は"背中からナイフで心臓を刺されている"のだから。
自分でもビックリするほどの大声を出したためか、たちまち周囲に人が集まってきた。
集まってきた人々は、植え込みのソバに倒れている男を見るなり、次々と悲鳴をあげはじめた。
「あっ!はやく警察に電話しなくちゃ!!!」
恵子は、慌てて肩に提げた白い牛皮のハンドバッグからスマートフォンを取りだした。
それから、通話画面に切り換えて110番を押し耳にあてがう。
三回ほどコール音が鳴り響いたあと、20代と思われる若い男が電話口にでた。
「はい。こちら緊急通報専用窓口です。
何がありましたか?」
こういうときどう説明すればいいのかわからず、恵子は一瞬戸惑った。
「もしもし?」
ほとんど間をおかず、電話の主ははっきりとした声で再度たずねてきた。
恵子は、とりあえず今みている光景をそっくりそのまま電話の主に伝えることにした。
「あの………マンションの前で人が倒れているんですけど。
刃物で背中を刺されて血まみれの状態で。
心臓を刺されているので亡くなっていると思います。
場所は鹿原市にあるカバラ・シオン・パークハウス前です」
「まず、あなたの名前と住所と年齢を教えてください」
電話の主は落ちついた声でそう告げた。
「杉山恵子、29歳です。今は三輪区に住んでいます」
「三輪区の杉山恵子さん………ですね?」
「はい」
「…………わかりました。
すぐそちらにパトカーと救急車を向かわせますので、その場で待機していてください」
電話の主はそう言うと通話を切った。
恵子はスマートフォンをハンドバッグにしまいながら、これからどうしようかと考えた。
そもそも、恵子は彼に会うためにこのマンションに来たのだ。
彼の名前は青山正哉と言った。
付き合い始めてから半年が経つ。
あまりパッとしない顔立ちだが、お金持ちでなんでも好きなものを買ってくれたし、
おまけに頭もそこそこよくて気がきくので恵子にとっては大切な人だった。
そんな彼のマンションの前でまさか殺人事件が起ころうとは。
彼は無事なのだろうか?
恵子は、今すぐにでも彼に電話したい衝動に駆られた。
でも、今はまだ我慢することにした。
警察に事情を聞かれたときに、あらぬ疑いをかけられないとも限らなかったからだ。
ーーパトカーと救急車は恵子が通報してから10分ほどで到着した。
救急車からは、四人の男が担架を持って出てきた。
全員ヘルメットとマスクをつけているので顔はよくわからない。
恐らく、全員30代~40代ぐらいではないだろうか。
パトカーから出てきたのは二人の警察官だった。
一人は軟派な雰囲気のスラリとした若い男。
もう一人は、いかにも熟練といった感じのガッシリした体格のコワモテの男だった。
「はいはい、どいてどいて」
若いほうの警察官が、野次馬に向かってそう言うと、手で追い払うようなしぐさをしてみせた。
すると、野次馬たちはまるで牧羊犬に追い立てられる家畜のように、ぞろぞろと隅のほうに移動し警察官と救急隊に道を開けた。
二人の警察官は、倒れている男のソバまでくるとさっそく現場検証をはじめた。
救急隊のほうは、担架を男のソバに置き頬を叩いたり、声をかけたりしていた。
しかし、そんなことをするまでもなく男は既に亡くなっていると恵子は断言できた。
なにしろ、男は心臓をナイフで貫かれているのだから。
恵子はかつて看護婦として働いていたことがあるので、人の体のどこに心臓があるのか正確に把握している。
恐らく即死だったろう。
ただ、重い病のように苦しみ抜いた果てに死ぬよりは、多少マシな死に方と言える。
もっとも、これはあくまで数年間医療に従事してきたイチ看護婦としての見解にすぎないが。
しばらくして、警察官は現場検証を終えるとパトカーの無線を手にとって何やら話しはじめた。
「シオン・パークハウス前で遺体を確認。
背中から凶器で刺されてる。
他に目立った外傷はないため、恐らくこれが致命傷になったと思われる。
三十代ぐらいの男性で身許は不明」
無線機の雑音が消えるのを待ってから警察官は続けてこう言った。
「それから、遺体のそばに拳銃が落ちてる。
25口径のリボルバー
ジャケットのしたには防刃製と思われるチョッキを着用」
拳銃に防刃チョッキ?
被害者はどうしてそんなものを所持していたのだろうか。
誰かに命でも狙われていたのだろうか?
それとも、どこかに襲撃する予定だったのか。
いずれにしても、この男がまともな人間でないことは明白だった。
そして、そんな男の死体が、彼の住むマンションの目の前で発見されたことが何より不気味に思えた。
「うん、うん、わかった」
そう言うとコワモテの警察官は無線を切った。
それから、胸ポケットからメモ帳とペンをとりだすと、恵子のほうに近づいてきた。
「あなたが遺体の第一発見者ですか?」
コワモテの警察官は恵子の前までくると、恵子の目を真っ直ぐ見据えながらそう質問してきた。
野次馬の視線が一斉に恵子に集まる。
恵子は、野次馬の突き刺すような冷たい視線をかわすように警察官のほうを振り向くと、「はい。そうです」とこたえた。
「遺体を発見したときの状況をできるだけ詳しく教えていただけますか?」
コワモテの警察官は近くでみると意外と若くみえた。
形のいい眉に大きくて鋭い瞳。
一昔前の刑事ドラマとかに出てきそうな、彫りの深いハンサムな顔立ちをしている。
恵子は「はい」と答えると、遺体を発見したときの状況について説明した。
「マンションについたのは、だいたい午前7時ごろでしょうか………。
マンションに入るときに植え込みの陰に人が倒れているのを見かけて。
不審に思って近づいてみるとこのありさまで………。
遺体をみるとつい悲鳴をあげちゃいました。
こういうことってなかなかないですからね。
私が悲鳴をあげると、通りを歩いていた人たちも遺体に気づいたようで次々と悲鳴をあげはじめました。
多分、ほとんどの人が血まみれで倒れている人間を見たことがなかったんだと思います。
それから、私はすぐに110番通報しました」
「遺体を発見したのは午前7時ごろで間違いないですね?」
コワモテの警察官がメモ帳にペンを走らせながらそう訊き返してきた。
「間違いないです。
鹿原駅で電車を降りたときに、チラッと駅の構内の時計をみたら、ちょうど6時55分ごろでしたから」
警察官は鋭い視線を恵子に向けたまま、メモ帳をペンの尻の部分でついていた。
それから、何か思いついたような顔をするとこうたずねてきた。
「あなたはどうして被害者が死んでいるとすぐに判断できたんですか?
背中をナイフで刺されただけでは、亡くなっているという根拠にはならないでしょう」
恵子は信じられないという顔をするとこう答えた。
「どうしてって…………心臓にナイフが刺さっていたんですよ?
心臓を刺されたら普通は死ぬでしょう」
「いや、ですから。
どうしてあなたには被害者が心臓を刺されているとわかったんですか?
心臓の正確な位置なんて普通はわからないのではないですか?
植え込みのそばに倒れているのをただ遠くから見ただけでは、なおさら」
警察官がケゲンな顔でそうたずねてきた。
なぜ被害者を見ただけで心臓を刺されているとわかったのか。
その問いにたいする答えは単純明快だった。
なぜなら、恵子は数年前まで看護婦として働いていたのだから。
看護婦として働いていたころは、レントゲン写真を毎日のように見ていたので、
看護婦を辞めた今でも、体のどの位置に心臓があるのか正確に把握することができる。
しかし、恵子はなるべくなら看護婦だったころのことは話したくなかった。
"あるできごと"があって以来、あの頃のことは思い出すだけでツライ気分になるのだ。
「それは……………黙秘します」
警察官はメモ帳をペンで叩きながら三回ほど大きくうなずくとこう言った。
「黙秘ねぇ。
まあ話したくないっていうなら話さなくてもいいんですけどね。
でも、そのぶんちょっとややこしいことになりますよ。
たとえば、あなたには今回の事件の重要参考人として警察署に同行してもらうことになるかもしれない」
恵子は、あわてて首をふるとこう答えた。
「私は事件とは関係ありません!
どうしてそんなこと言うんですか?」
すると、警察官は「これはあくまで例えばのハナシですけどね」と前置きしたうえで、こんなことを話しはじめた。
「なぜ心臓を刺されて死んでいるとあなたにわかったのか。
そして、なぜその理由を黙秘するのか。
それは、あなたが犯罪に加担したか、あるいは犯罪を犯した人物そのものだからと疑われても無理はないでしょう。
普通なら、まず人が倒れているのを見かけたらその人に声をかけるものです。
それから、意識があるなしに関わらず110番ではなく119番に通報します。
人が倒れているのを見かけたときは、まず救急車を呼ぶのが鉄則ですからね。
しかし、あなたはいきなり110番に通報した。
これはどう考えても不自然です。
まるであなたには、被害者が誰かに殺されたことがわかっていたように思えます」
相変わらず警察官の鋭い眼差しが恵子の瞳を捉えて離さない。
恵子は、その眼光を見つめることに耐えきれなくなって警察官の眼差しから視線をそらした。
そして、ゆっくり首を横に振るとこう答えた。
「被害者は背中から刃物で心臓を刺されていたので他殺と判断しました」
警察官は「ああ、そうか」と言うと、二度ほどうなずいた。
「どうして心臓を刺されていると判断したのかについては黙秘します。
私にもいろいろ事情があるんです。
たとえ他人からみたら些細なことにみえても、私にとってはかなり深刻な問題です。
できれば過去のことは一切話したくありません」
実際、あの頃のことは恵子にとっては二度と思いだしたくないことだった。
恵子は、あの頃の記憶を脳内のブラックボックスに封じ込めたまま、
誰にも開封されないよう鎖でぐるぐる巻きにして、南京錠で鍵をかけてしまったのだ。
仮にもしその封印が解かれた場合、そのトラウマから立ち直るまでにかなり苦労することになる。
もしかしたら、自殺するかもしれない。
それほど、恵子にとって看護婦だった頃の思い出はツライものなのだ。
禁忌といっていい。
「でも、私が事件とはまったくの無関係だということは断言できます。
そもそも、私はこの人と面識すらないんですよ。
どうして面識もないような人を殺さなければならないのでしょうか?」
「あなたが被害者と接点があるかないかについては、あとでじっくり調べます。
今、問題なのはあなたがどうして遺体を発見したとき、ナイフで心臓を刺されているとすぐにわかったのかということですよ。
そして、なぜあなたはその理由を黙秘しているのか。
このまま黙秘を続けることで、起訴されることになっても本当にいいんですか?」
依然として、警察官の目は恵子の目を捕らえて離さない。
その瞳からは、獲物を狩る前の肉食獣のような冷酷さと辛抱強さが感じとれた。
まるで、少しでも隙を見せたらすぐにでも獲物に襲いかかり、柔らかな喉笛に鋭い牙を突き立てようとするみたいな。
「構いません」
恵子は警官の鋭い眼光に気圧されず、きっぱりそう言いきった。
そもそも、恵子がやってないという証拠ならいくらでもあるが、やったという証拠は何もないのだ。
証拠がない以上、有罪にすることは不可能だろう。
警察官はため息をつくと、ようやく恵子の目から視線を反らした。
ほんの一瞬だけ。
しばらく、空を見上げてから再び鋭い視線で恵子を射すくめる。
「一応、忠告しておくが立件されれば君は法廷に立たなければならなくなるぞ。
法廷に立てば、君がかたくなに黙秘している過去のことは洗いざらいすべて世間に知られることになるだろう。
たとえ君が黙秘していてもだ。
法治国家においては、いつまでも事実を隠ぺいしておくことなんかできないんだ」
"そうか"と恵子は思った。
仮にもし、自分が刑事告訴されればマスコミの餌食になるのは火をみるより明らかだった。
マスコミは、恵子の過去のことや当然のことながら青山との関係まで洗いざらいすべて報道するだろう。
ブラックボックスの開封。
それだけはなんとしても避けなければならないことだった。
恵子は深いため息を一回だけ吐いてから、警察官の目をみるとこう言った。
「…………わかりました。
過去のことはあまり人に話したくないのですが、濡れ衣を着せられるのは不服なのでできる限りのことは話します」
警察官は恵子の目を見つめながら黙ってうなずいた。
「二年ほど前まで私は"鹿原総合病院"で看護婦として働いてました。
もちろん、医療系の大学を出ていますから心臓がどの位置にあるのかや、
どの程度の傷が致命傷でどの程度の傷なら助かるのかなど、ある程度は判断できます。
今回の場合ですと、背中から心臓をナイフで深く刺されていたので完全に亡くなっていると判断しました。
心臓を凶器で刺されたら即死しますからね。
看護婦として働いていたころ、実際に心臓を刺されたという患者さんを何人か見てきましたが、助かった人は一人もいませんでした」
「なるほど。以前は看護婦として働いていたんですね。
だから、被害者が背中からナイフで心臓を刺されているのを発見したときには、既に亡くなっていると判断できたと」
恵子はうなずきながら「そうです」と答えた。
「ところで、このマンションには何のために立ち寄ったんですか?
さきほど、用事があってマンションにきたというようなことを話されていましたけど」
「彼氏に会うためにこのマンションに来ました。
今日は彼氏とデートする予定だったんです」
「ということは、彼氏さんはこのマンションに住んでいるんですね。
名前はなんというんですか?」
恵子は警察官の顔を怪訝な表情で見つめながらこう答えた。
「青山正哉といいます。
このマンションの26階に住んでいます」
警官は三回ほどうなずくとメモ帳にペンを走らせた。
それから、顔をあげ再び訊ねてきた。
「彼の年齢と職業は?」
「職業はサラリーマンで今年で30になります」
「勤めている会社の名前とかもできれば教えてほしいですね」
「あの………さきほどから立ち入ったことを聞きすぎではないでしょうか?
警察官ならプライバシーの侵害を犯してもいいなんてことありませんよね?」
恵子はついそう訊ねてしまっていた。
遺体の第一発見者の自分のことならまだしも、今回の事件とは無関係な彼のことを訊かれることに我慢ならなかったのだ。
すると、警察官は太い眉を寄せながらこう答えた。
「私はただ与えられた職務を遂行しているだけです。
黙秘したいというならそれでも結構ですよ。
あとで独自に調査させてもらいますから」
警察官は相変わらず鋭さのこもる眼光で恵子を見つめながらそう言った。
恵子は、あきらめてため息をつくと「日月商事に勤めています」と答えた。
「日月商事?日月商事の社員が平日に休んだりするんですか?」
まるで、日月商事の社員だったら休まず働くのが当然とでもいいたげな警察官のいいくさに、恵子は腹が立った。
しかし、腹を立てている様子をおくびにも出さず、恵子は「デートのために有給をとったみたいです」と答えた。
「あっ、そうか。有給を使ったのか」
警官は何度もうなずきながらメモ張にペンを走らせた。
「じゃあ、もう一度確認するけどあなたのボーイフレンドの名前は青山正哉。
年齢は30歳。日月商事勤務。ってことで間違いありませんね?」
同じことを二度訊ねられるのは苦手だったが、恵子は表情を変えることなくただ「はい」とだけ答えた。



ーー1時間ほどで恵子は解放された。
のちに現場検証の結果、男は防刃チョッキの上からサバイバルナイフで刺されていたことがわかり、
女性の犯行はまずあり得ないということが判明したからだ。
しかし、恵子は言いようのない漠然とした不安感に襲われていた。
というのも、彼と連絡がつかないのだ。
いくらケータイに掛けても"お掛けになった電話は……"という定型文を読み上げる機械的な音声が再生されるだけだった。
この音声が再生されるということは、ケータイの電源を切っているか、あるいは電波の悪いところ(山のなかとか)にいるかのどちらかだ。
「繋がりましたか?」
ソバで恵子の様子を見ていた若いほうの警官がそう訊ねてきた。
恵子は若い警官のほうへ顔を向けるとクビを横にふった。
「彼、どうしちゃったんでしょうね?」
若い警官は表情を曇らせながらそう呟いた。
「わかりません」
恵子としてもそう答えるより他ない。
もう一度かけてみるが、やはりダメだった。
「繋がりませんか?」
警官が恵子の顔を覗きこむようにしてそう訊ねてくる。
警官の目は心配のいろより、どちらかといえば好奇のいろのほうが濃いように感じられた。
恐らく、今回の殺人事件と何か関係があるかもしれないと踏んでいるのだろう。
実は、恵子のほうもさきほどからそう思いはじめていた。
だが、彼が人を殺すということはありえないことだ。
そもそも、彼には人を殺す度胸も理由もない。
となると、事件に巻き込まれた可能性が高い。
そう考えると、恵子はいてもたってもいられなくなった。
「私、ちょっと彼の家に行って様子を見てきます」
恵子は若い警官にそう告げるとマンションのなかへ入っていった。
「僕も行きますよ」
若い警官はそう言って恵子の後を追ってきた。
恵子は警官のほうを振り向くと「ぜひ」と答えた。
恵子は、マンションにはいりエレベーターの呼び出しボタンを押す。
エレベーターが到着するのを待つ間、若い警官がこんなことを訊ねてきた。
「青山さんは普段からケータイの電源を切っているんですか?」
「いいえ。そんなことはありません。
仕事中も電源を切っているということはまずないです」
警官は眉間にシワを寄せながら「変ですね」と言った。
「もしかしたら充電中なのかもしれません。
それか、寝ているのかも………」
恵子はそう言いながら、内心ではそんなことは絶対にあるはずがないと思っていた。
そもそも、今日デートしようと言いだしたのは青山のほうなのだ。
しかも、青山がそう言ってきたのは昨日のことである。
メールで"明日は久しぶりに休みがとれたからどこかへでかけよう"と。
デートのときに、青山がそんな失態をおかすことなど今まで一度もなかった。
そういうところは、抜かりないタイプの男なのだ。
「そうかもしれませんね」
若い警官はこれっぽっちも納得していないという表情でそう答えた。
やがて、エレベーターが到着して扉が開くと恵子と若い警官は乗り込んだ。
恵子は26Fの階数ボタンを押した。
扉がゆっくり閉まりエレベーターが動き出す。
恵子はそのままエレベーターの操作パネルの前に佇んだ。
若い男とエレベーターのなかで二人きりというのは、妙に落ち着かない感じのするものだった。
はからずも今日は彼とデートをするため、ばっちりメークし、黒くなりかけた髪も栗毛いろに染めなおしたばかりだった。
服装はムネのところにリボンがついてる白いニットのワンピース。
そして、下は淡いブルーの無地のスカートというイデタチ。
恵子は今年で29歳になる。
そろそろ結婚してもいい年頃だ。
もちろん、青山とは何度もそういうハナシになったが、そのたびに青山に"結婚する気はない"と言われた。
彼はどういうわけか、結婚するということにたいしてヒドク抵抗があるようだった。
どうして結婚してくれないのか恵子には理解できなかった。
彼だってもうイイ歳なのに。
自分のほかに女でもいるのだろうか?
そんなことを恵子がぼんやり考えていると、警官が不意にこんなことを訊ねてきた。
「ところで、昨晩。このマンションの近くで起きた事件のことはご存知ですか?」
恵子はビックリした表情でこうきき返した。
「えっ?事件ですか?
いや、知らないです。何かあったんですか?」
「そうですか。
パトカーが出動したりして結構な騒ぎになったんですけどね………。
いや、知らないならいいんです」
いいようのない胸騒ぎを覚えたので、恵子はこうたずねた。
「それって何時頃のことですか?」
「昨晩の午前1時頃かな………。
車の下に発煙筒が投げ込まれましてね。
別にそのこと自体は大したことじゃなかったんだけど、その車をいろいろ調べたところ盗難車だったことがわかりまして。
今でも発煙筒を投げ込んだ人物と、盗難車を持ち出した人物を捜索中なんですよ」
「へぇ。そうだったんですか。
全然知りませんでした」
まさか、彼のマンションのすぐ近くでそんな事件が起きていたなんて。
恵子はいよいよ彼のことが心配になってきた。
何しろ、彼が最後に恵子にメールしてきたのは昨晩の午前1時ちょっと前のことなのだ。
つまり、車の下に発煙筒が投げ込まれたのとほぼ同じ時刻にメールしてきたということになる。
彼が事件に巻き込まれた可能性がより一層現実味を帯びてきた。
ほどなくして、エレベーターは26階に到着した。
恵子はエレベーターの扉が開くと、警官より先にエレベーターの外へ出た。
警官がエレベーターから降りるのを待っていると、警官は「先へ行ってください」と言った。
恵子は、うなずくと駆け足で青山の部屋の前まで行き呼び鈴を鳴らした。
扉の向こうがわで"ピンポーン"という今の切迫した状況を考慮すれば、いささか間の抜けた感じのする音が鳴り響く。
数秒待つが応答はない。
恵子はふたたび呼び鈴を鳴らしてみた。
が、やはり応答はなかった。
「出ませんか?」
いつの間にか恵子のソバにきていた警官が、やや表情を強ばらせながらそう訊ねてきた。
警官の瞳は鋭く険しいものになっていた。
その眼光は肉食獣が獲物を見つけたときのそれだった。
恵子はその瞳を見てゾッとしながらこう言った。
「あの………ひょっとしたらまだ寝ているのかもしれません。
もう一度呼び鈴を鳴らしてみます」
恵子がそう言って呼び鈴に手を伸ばそうとした。
が、そのとき。若い警官は恵子の手を遮ると「青山さーん!いますかー?」と叫んでドアノブに手をまわした。
警官がノブをまわすと、あっさり扉は開いた。
てっきり鍵がかけられているものとばかり思っていた恵子はやや拍子抜けした。
しかし、それと同時に今まで抱いていた不安が今にも現実のものになりそうな気がして、全身が総毛立つのを感じた。
心臓がやたら重苦しい。
"もしかしたら、本当に彼は事件に巻き込まれたのかもしれない"
そんな不穏な言葉が頭をかすめる。
恵子はいてもたってもいられなくなった。
部屋の中へ入ろうとする警官より先に部屋のなかへかけこむと、恵子はまっさきにリビングへ向かった。
なぜリビングに向かったかと言えば、リビングのドアが開きっぱなしになっていたからだ。
彼がリビングのドアを開けっ放しにしておいたことなど今まで一度もない。
心臓の鼓動がより一層はやくなる。
リビングに入ると、血のニオイとなんとも言えない異臭が鼻をつき恵子は思わず鼻を腕でフサいだ。
それからリビングの中心のあたりに視線を移す。
そこには異臭の元凶と思われるものが転がっていた。
恵子はそれをみると目を大きく見開いた。
心臓が一度だけ大きく脈うつのが感じられる。
それは、喉と腹を掻ききられ白目を剥いた男の死体だった。
「イヤーーーーーーッ!!!」
恵子は悲鳴をあげるとその場で卒倒した。

ペラドンナ~第四章~

ーーAM1:00。
世間のごく一般的な人々が寝静まっているこの時間にも、働く人種というのは世の中には一定数存在する。
営業時間がとっくに過ぎている喫茶"ブラックキャット"の前に集まった男たちも、
そんな人種に分類される者たちの一員だった。
男たちは全部で4人。
中肉中背の男が1人。
体格のガッチリした男が1人。
背の高い男が1人。
160cmあるかないかぐらいのとても小柄な男が1人。
男たちはそれぞれに黒い服を身にまとっていた。
黒のジャケットに黒のスラックスに黒のソフト帽といった具合だ。
全身黒ずくめのため、灯りの消えたブラックキャットの前にいると完全に闇と同化し、
遠目ではその姿を目視することさえ困難である。
男たちは小声でヒソヒソと何か話し合っていた。
会話には、ときおり"殺す"とか"八つ裂き"とかいう物騒な単語が入り混じっている。
それらの言葉から想像するに、男たちがこれからやろうとしていることは、どう楽観的に見ても
コンビニのバイトに向かうわけでも、配管の点検に出掛けるわけでもないということがわかる。
やがて、話がまとまったのか男たちは互いにうなずきあうと何処かへ立ち去っていった。
男たちが立ち去り、誰もいなくなったブラックキャットの周辺は再び静寂に包まれる。
結局、男たちは最後まで気づくことはなかった。
灯りの消えたブラックキャットの店内にいる"監視者"の存在に。
そして、その致命的とも言えるミスが後に男たちの首を絞めることになるということにもーー



安田(と3人の男たち)は、あるマンションの非常用階段をひたすら駆け上がっていた。
四人の黒ずくめの男たちが、音も立てずに階段を駆けあがっていく姿を仮に目撃した人間がいたとすれば、
あまりにも非日常的な光景に困惑したことだろう。
あるいは、映画かドラマの撮影と勘違いして好奇の眼差しを向けるか。
そのどちらにしても、安田(と三人の男たち)にとっては都合の悪いことだった。
しかし、深夜のこの時間にこのマンションの非常用の階段を使う人間などいないということを、安田は熟知していた。
このマンションに乗り込む前に、このマンションの住民の動きを隅から隅まで片っぱしから調べあげたのだ。
このマンションに取り付けられている監視カメラの位置も事前に調査済みで、裏口に取りつけられている一台と、
非常用階段の一階部分にとりつけられている一台を破壊すれば、
目的の部屋まで監視カメラに映ることなく無事にたどり着くことができるはずだった。
安田(と三人の男たち)は顔を目だし帽で覆い、身にまとった黒いジャケットの下には耐刃製のベストを着用していた。
顔を目だし帽で覆い隠したのは、万が一誰かに目撃されたときのための予防策だ。
耐刃製のベストを身につけたのは、"標的"が万が一サバイバルナイフなどで抵抗してきた場合に備えてのことである。
やがて、ある階にたどりつくと安田は階段の壁にピタリと背中をつけて、廊下の様子を観察した。
事前の調査どおり、廊下には人気がなくシンとしていた。
安田は、三人の男たちのほうを振り向きうなずくと、一気に廊下を駆け出した。
目的の部屋は、五つ目の部屋を通りすぎた先にある六つ目の部屋だ。
部屋には数秒でたどり着いた。
50mほどの距離を音もたてずに全速力で駆け抜けてきたため呼吸が荒い。
少しの間、深呼吸をして呼吸を整えると安田は背の高い男(この男は蛇川といった)は扉の右手に、
残りの二人(小柄な男は鈴木といい体の大きな男は大淵といった)は扉の左手に立つよう手で指示を送る。
それから、安田は扉の右手の壁に背を預けるとそっとドアノブに手をまわした。
なるべく音を立てないようにゆっくりとノブをまわし扉を開ける。
思いのほかあっさり扉が開いたため、安田はやや拍子抜けした。
こんな時間だというのに、施錠されていないというのはどう考えてもおかしかった。
安田は先に部屋へ入ろうとする蛇川を押し留めると、小声でこう言った。
「様子がおかしい。一応、拳銃の準備をしとけ」
蛇川は、黒いジャケットの内側からサプレッサーつきの拳銃を取り出すと、
撃鉄を起こし、安田の顔を見てうなずいた。
安田もうなずきかえすと蛇川に「先へ行け」と手で促した。
蛇川は拳銃を構えながら部屋の中へ入っていった。
安田と残りの二人(鈴木と大淵)も、拳銃をホルスターから抜き出して撃鉄を起こし、
蛇川よりやや遅れて部屋のなかにはいる。
部屋の中は照明で煌々と照らされていた。
どうやら部屋に"標的"がいるのは間違いないようだった。
蛇川は、音を立てずにゆっくりとした足取りで部屋の廊下を奥へ向かって移動していく。
安田と残りの二人はその様子を玄関付近からうかがっていた。
これは、仮にもし相手が散弾銃のようなものを所持していた場合に備えての予防策だった。
この布陣なら万が一、散弾銃かなにかで蛇川がやられても、残りの三人で巧く標的を処理することができるからだ。
もっとも、そのような不測の事態は今まで一度も起きたことはなく、いつも蛇川が一人で済ませて終わるのであったが。
やがて、蛇川はある部屋の前で立ち止まると、壁に背中をピタリとつけてそっと部屋の中を覗く。
部屋の位置からして、蛇川が覗いているのはリビングだろうと安田は見当をつけた。
だいたいリビングというものは、玄関から近い位置に配置されているものだからだ。
蛇川はリビングの中を数秒覗いてから、安田たちのほうを振り返ると「こっちへこい」と手で合図を送ってきた。
安田は、残りの二人に向かって「ここで待っていろ」と指示すると、足音を立てないようにそっと蛇川に近づいていった。
蛇川は安田に「中を覗いてみろ」と手で促した。
安田は蛇川に促されるままリビングのなかを覗く。
リビングのなかは、まるで深海の底のような暗闇と静寂さに包まれていた。
明らかに様子がおかしかった。
仮にもしリビングに人がいるなら、大抵は部屋の灯りがついており、テレビやレコードの音だとか、
あるいは、キーボードを叩く音だとかが聞こえてきてもよさそうなものだが、
この部屋からはなんの音も聞こえてこない。
それどころか、人の気配というものがまるで感じられなかった。
寝室で寝ているということも考えられるが、それなら、廊下の電気がつけっぱなしになっていることや、
玄関の扉に施錠がなされていないのは不自然である。
だが、躊躇している暇など安田にはなかった。
もし監視カメラが破壊されていることに管理人が気づき、
警察に通報したりしたら事態はよりややこしくなるからだ。
なるべくなら、早急に"仕事"を片付けてすみやかにこの場から立ち去らなければならない。
たとえ罠が仕掛けられていたとしても、この広い部屋ならいくらでも誤魔化しはきくだろう。
安田は拳銃を握りなおすと、意を決して部屋の中に飛び込み部屋のあかりをつけた。
部屋のあかりをつけると同時に、安田は部屋の中央に置かれた"あるもの"を見て愕然とした。
「………!?」
それは血の海に沈んだ見覚えのある顔の男の死体だった。
男は喉を鋭利な刃物で掻ききられ、喉につけられたものと同じような切り傷が腹部にも残されていた。
切り裂かれた腹部からは腸が飛び出している。
死体の状態から考えて男が絶命していることは間違いなかった。
部屋には死体のほかに、大型テレビと牛革でできた大きなソファーが置かれていた。
安田は牛革のソファーの傍らに銀色に光る物体が落ちているのを発見した。
近づいて拾い上げてみると、それが"バタフライナイフ"であることがわかった。
そのバタフライナイフは、無惨な死体となって横たわっている男の所有物だった。
肌身放さず常に持ち歩いていたから間違いようがない。
バタフライナイフには血が一滴もついていなかった。
犯人はこのナイフを殺害に使用したのではないのだろうか。
三人が部屋に入ってくる音が聞こえた。
安田は急いでバタフライナイフをズボンのポケットにいれた。
「これ………林田か!?」
大淵(体の大きい男)が"林田"の死体を見るととっさにそう叫んだ。
大淵の声は大きいうえによくとおる。
「バカ!大声だすんじゃねぇ!」
安田はそう言うと大淵の頭を拳で殴った。
「いってー!」
殴られた大淵が悲痛なうめき声をあげる。
「これは"みせしめ"だな」
蛇川が呟く。
「ああ、間違いねえ。
クソっ!舐めたマネしやがって!」
小柄な鈴木がそう毒づいた。
「先に逝きやがって…………バカ野郎め」
安田は林田の死体に向かって絞り出すような声でそう言った。
ポケットに忍ばせたバタフライナイフを握る手がわずかに震える。
林田は安田の幼馴染みだったのだ。
「多分、標的はもうここにはいねぇだろうな。
仮にもしまだいるとしたら相当腕に自信があるか、ただの間抜けかのどちらかだろう」
蛇川が冷静な声でそう言った。
「でも、まだこの部屋のどこかに隠れて俺たちのことを見はってるかもしれねーぜ?
帰り際に背後からマシンガンでもぶっぱなされたらひとたまりもねぇ。
念のために捜しておいたほうがいいんじゃねーのか?」
大淵が(この男にしては)比較的冷静な声でそう言った。
安田はうなずくと三人に向かって「探せ」と命じた。
それから、安田たちは浴槽やトイレ、寝室のベッドのなかやクローゼットを手当たり次第に調べた。
しかし、どこにも"標的"の姿は見当たらなかった。
「やはり、いないみたいだな」
蛇川が呟いた。
「バッくれやがったか!クソったれが!!!」
大淵がふたたび大声でそう言った。
「大声だすなって言っただろう!
近所の住人に気づかれたらどうするんだ」
安田はそう言うと大淵の顔を今度は平手で殴った。
殴られた大淵の頬が赤く染まる。
「とりあえず、ここは撤退だ」
安田がそう言うと三人は同時にうなずいた。
安田たちが寝室を出て玄関まで向かおうとしたとき、ふいにパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「げっ!もうサツの野郎がきやがったか!?」
大淵が再び騒ぐ。
安田は急いで玄関の扉に駆け寄ると、そっと扉を開けて外の様子をうかがった。
サイレンの音は確かに聞こえてくるが、パトカーの姿はどこにも見あたらない。
安田は安堵すると、背後にいる男たちに向かってこう言った。
「大丈夫だ。ここじゃない。
行くぞ!」
安田がそういうと三人は一斉に駆け出した。
安田はその後を追う。
部屋を出て廊下を階段まで一気に駆けていくと、
今度は駆けあがってきたのと同じ階段を下に向かって駆け降りていく。
「あの野郎、絶対に生かしちゃおかねぇ!
今度見つけたら八つ裂きにしてやる」
小柄な鈴木がそう毒づいた。
鈴木は、林田を殺されたことに心の底から腹を立てているようだった。
他の二人も鈴木同様に殺気立った顔をしている。
安田も、林田を殺害した犯人に復讐してやりたい気持ちでいっぱいだった。
だがしかし、"林田を殺害したのは本当に標的だったのだろうか"という疑問も安田は同時に抱いていた。
そもそも、なぜ標的は林田を殺害する必要があったのだろうか。
事前の調査では、標的の仕事はあくまで"誘拐"であるはずだった。
裏の世界で誘拐を生業としている者があやまって人を殺害してしまった場合、
普通はあのように人目につくような場所に遺体を放置しておくということはまずしない。
山に埋めるか、さもなくば硫酸で処理するかのどちらかだ。
そうしないと"アシ"がついてしまうからだ。
それから、安田にはもうひとつ気になることがあった。
それは林田の"コロサレカタ"だ。
首を掻ききってから腹部を切り裂く。
これは安田が所属する組織の人間の"コロシカタ"だった。
しかも、そのコロシカタには組織の人間にたいする"見せしめ"の意味合いが多分に含まれている。
安田が所属する組織の"見せしめ"をなぜ標的は知っていたのだろうか?
そんなことを考えているうちに、安田(と三人の男たち)はいつの間にか非常階段の一番下までたどりついていた。
安田(と三人の男たち)はマンションの裏口から外へ出ると、目だし帽を脱いだ。
全速力で駆け抜けてきたため目だし帽は汗でぐっしょり湿っていた。
安田は目だし帽を一度だけ強く振ると、ジャケットについたポケットにしまいこんだ。
それから、サプレッサー付きの拳銃をジャケットの中に装着しているホルスターに納める。
「おい、これからどうするよ?」
蛇川が安田に向かって訊ねてきた。
「とりあえず車をどこかへ移動させよう。
あんなとこに置いといたらポリ公に怪しまれるだけだからな」
安田はそう答えた。
「了解」
三人の男たちはそれぞれにそう答えると、車を停めてある大通りのほうへ向かって歩きだした。
安田もそのあとについて歩く。
だが、そのとき突然安田(と三人の男たち)の視界にパトカーの赤い点滅が飛び込んできた。
前を歩いていた三人組は、一瞬ビクッと体を震わせると足を止めた。
安田はパトカーの赤い光が点滅する方へ視線をむける。
視線の先には、安田たちが乗ってきた黒い車をしきりに調べている警官の姿があった。
「なんでサツがオレたちの車を調べてやがるんだ!?」
大淵が再び騒いだ。
「とりあえず、今はここで成り行きを見守るしかねぇだろうな」
しばらく考えてから、安田は口を開く。「標的を始末するほうが先じゃねーのか?
標的ならまだこの近くにいるだろうぜ。
ケーサツ呼んだのも多分そいつだろうしな。
さっさと見つけて始末しちまおうぜ」
鈴木が拳銃を取りだしながらそう言った。
「だよな!さっさとやっちまおう!」
大淵が鈴木の意見に同意する。
「お前らバカか?
あいつは林田を殺してるんだぞ。
とっくにばっくれてるに決まってる」
蛇川が腕を組みながら冷静にそう言った。
「まあ、確かに警察がいるのにそのへんウロチョロしてるってのはちょっと考えにくいよな。
ヤツだってできれば警察の目を避けたいだろうしな」
安田も蛇川の意見に同意する。
すると、鈴木がこう提案してきた。
「じゃあ、俺が偵察してこようか?
ポリ公が何を調べてるのか気になるし、もしかしたら野次馬のなかにヤツが紛れ込んでるかもしれんし」
安田は少しだけ間をおくと、やがて「しくじるんじゃねえぞ」と答えた。
「了解」
鈴木はズボンの中から紺のハンチング帽を取り出して被ると、大通りのほうへ歩いていった。
ハンチング帽を被った鈴木は、そのへんにいる一般人とほとんど見分けがつかなかった。
全身黒ずくめだというのに、物騒な雰囲気がまるで醸し出されていないのだ。
そこが鈴木の長所であり、この組織のなかで何かと重宝される理由でもあった。
安田はポケットからタバコを取り出すとライターで火を点けた。
ニコチンのおかげで血の巡りがよくなってくる。
タバコの煙が肺のなかにはいるのを感じると、やっと人心地がついたような気がした。
「なあ、本当に標的はまだこの辺にいると思うか?」
いつの間にか、安田の背後にいた蛇川が訊ねてきた。
安田は蛇川のほうを振り向きもせずに「さあな」とだけ答えた。
ーー鈴木は数分で戻ってきた。
「どうだった?」
安田は鈴木に訊ねた。
鈴木は首を振りながらこう答える。
「どうも俺たちが乗ってきた車の下に発煙筒が投げ込まれたらしい」
「発煙筒だと!?誰がやりやがったんだ!?」
大淵が騒ぐ。
「やっぱ、標的がオレたちの足止めをするためにやったんじゃねえのかな。
でも、あれ盗んできたヤツだからオレたちの身許は割れないだろうけどな」
鈴木が答える。
「指紋だってつかないようにずっと革の手袋はめてたしな」
蛇川がつけ足すようにそう言った。
「まあ……………犯人は十中八九"標的"だろうな。
標的はオレたちに狙われてることを察知して小細工をしかけたんだろう。
車から煙が出てれば騒ぎになるのは一目瞭然だしな。
とにかく、ここにずっといるのは危険だ。
今は、バラバラに散って逃げたほうがいい」
「撤退!?まだヤツが近くにいるかもしれねぇってのにか!?
先にヤツを捕まえて始末したほうがいいんじゃねーのか!?」
どうやら、大淵は標的をヤりたくて仕方ないようだった。
まくしたてるようにそう言いながら、ズボンの中にしのばせていたサバイバルナイフを取りだして、刃先を手でなぞっている。
まるで、サバイバルナイフの切れ味を確かめるように。
「こんな格好でウロウロしてたら怪しまれるぜ。
警察だっているわけだしな。
今は、どう考えても分が悪い。
ここは撤退したほうがいいに決まってる。
標的はまた日を替えて始末すりゃいいだろう」
蛇川が落ちついた声でそう言った。
「だな。
今は下手に動かないほうがいい」
安田が蛇川の意見に賛同する。
「チキショー!」
大淵が悔しそうにそう言った。
安田は全員の顔を一通り見回すとこう告げた。
「よし!お前ら散れ!」
安田が声をあげると、三人の男たちは全員別々の方向へ
(あるものは路地裏へ、あるものはマンションの裏へ、またあるものは大通りへ)
それぞれ走り去っていった。


ーー男たちが走り去っていくのを見届けると、安田はただ一人その場に残って、ポケットからショートホープの箱を取り出した。
ショートホープを一本口にくわえライターで火をつける。
タバコの匂いがあたりに漂った。
普段、DJとしてクラブで働く鈴木には組織のなかでは主に情報収集と偵察を任せている。
身長が低く小柄だが、人心掌握術と情報収集力に長けており、
誰にも警戒されずにこちらがほしい情報を確実に収集することができた。
標的が住むマンションの監視カメラ位置や、夜の何時になったらヒトケがなくなるかを調べたのもこの鈴木だった。
声が大きく大柄で一見するとでくの坊にも見える大淵は、おもにチカラワザが担当だ。
脅しのために敵の腕を折ったり、ときには敵が立てなくなるまで殴り倒すこともある。
やりすぎて敵をあやめてしまったりと少々迂闊なところのある男だが、
そばにいるだけで相手に威圧感を与えるため、この男も組織のなかでは必要不可欠な存在だった。
そして、組織一身長の高い男蛇川。
この男は拷問と暗殺が担当だった。
拷問の内容は、手足の爪を一枚ずつ剥がしたりものや、
全裸にした標的の局部に真っ赤に焼けた鉄を押し当てたりするものなど残酷極まるものばかりだ。
これらの拷問をためらうことなく執行することから、組織のなかでは"デビル"というあだ名で呼ばれていた。
しかし、残酷なところがある反面、身内には優しく意外に子煩悩であるらしかった。
子供の運動会や保護者同伴の遠足などによく顔を出しているというハナシを耳にしたことがある。
そして、今回マンションのなかで殺害された男。
その男の名は林田といった。
林田は安田の幼なじみで、昨年までは普通のサラリーマンとして堅気の生活を送っていた…………。
安田が物思いに耽っていると、不意に背後の植え込みのあたりからガサッという物音が聞こえた。
小さな音だったが安田は聞き逃さなかった。
安田は、ショートホープを地面に投げ捨てると靴の底で踏み潰した。
しばらくのあいだ、無言でその場に立ち尽くす。
植え込みの影に隠れた人物の反応はない。
しばしの沈黙を挟んだあと、安田が口を開く。
「…………こんなことしてタダですむと思っていたのか?」
反応はない。
しかし、植え込みの影に何者かがいることだけはわかる。
そして、その何者かが"自分の予想どおりの人物"であることも安田は確信した。
「林田はな………俺の唯一の幼なじみだったんだよ。
結構いいヤツだったんだぜ。
敬虔なサラニストでミサにも積極的に参加してたしな。
頭もよくて大学もちゃんと出てる。
まあ、オレのダチのなかじゃあわりにまともなヤツだったってわけさ。
ただ、ちょっとだけ抜けてるとこがあってな。
まあ、事業に失敗して大量の借金を抱え込んじまったのよ………。
その金を返そうと普段は土木作業員として働いてる。
そして、依頼されれば鉄砲玉にもなる」
安田はそこまで話すと不意に唇を強く噛みしめた。
唇が酷く震えている。
不意に心に溜めていたものが喉元まで出かかったがグッとこらえた。
"仕事"を遂行するときに何よりも大事なのは冷静さなのだ。
「………とにかくお前が殺したのはそういうヤツだ。
オレはてめえを絶対ゆるさねーぜ?
この場で八つ裂きにしなきゃ気がすまねぇ………。
隠れてないで出てこいよ!」
安田は、林田を殺した犯人が隠れているであろう植え込みを睨み付けた。
だが、やはり反応はない。
安田はホルスターからサプレッサー付きの拳銃を抜き取ると、植え込みのほうに向け数発の弾丸を撃ち込んだ。
むやみやたらに撃ったわけではなく、相手の身長や体勢などを考慮して正確に頭部を撃ち抜いた。
数発の発砲音があたりに響きわたる。
もっとも、発砲音といっても拳銃にはサプレッサーがとりつけられているためそれほど大きな音にはならなかったが。
火薬のニオイが辺りに立ち込める。
植え込みのほうで何かがドサッと崩れ落ちる音がした。
安田はため息をついてから拳銃をホルスターにしまうと、その場を立ち去ろうとした。
が。しかし、立ち去ろうとした次の瞬間、安田は背中から胸部にかけて鋭い痛みが走るのを感じて足を止めた。
心臓のあたりが重く苦しかった。
冷や汗をかきながらなんとか首をまわして背中のあたりを見ると、
サバイバルナイフが耐刃製のベストを貫通し心臓を正確に貫いているのが確認できた。
安田はとっさに叫ぼうとしたが、血で喉が塞がれていたため、安田の叫び声はゴボゴボっという
トイレを流したときのような奇妙な音を立てただけで終わった。
安田は、その場にたおれこんだ。
まるで強い麻酔でも打たれたように全身から力が抜けていく。
やがて、視界がぼやけていき呼吸することさえ苦しくなってきた。
"クソっ……………"
言葉にならない呻き声をあげる。
今まで出会った仲間や殺してきた人物の顔、そして、忌み嫌っていた人物の
顔までもが安田の脳裡に浮かんでは消えていった。
そして、最後に表れたのは林田の顔だった。
林田は安田に微笑みかけていた。
それは、何の屈託もない穏やかな微笑みだった。
安田も自然と笑顔になる。
もっとも、それは単に"意識のなかで笑った"だけであって、
"実際に目に見えるような形で笑ったわけではなかった"が。

すみれ展

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四月一日、二日に静岡県三島市楽寿園の展示場ですみれ展が開催されます。
すみれ展ではすみれの展示(※静岡すみれの会の会員さんの作品です)のほか、すみれの苗の販売も行われます。
私が育てているスミレも何品か出品する予定です(^^)
お近くにお住まいの方は気軽に会場に足を運んでください。

ペラドンナ~第三章~

ーー「先日から行方がわからなくなっている御手洗公子(みたらいきみこ)さんの目撃情報はなく、
引き続き鹿原市警察署は、御手洗公子さんの捜索を続けるとともに、先月同市で起きた斎藤尚記さん失踪事件との関連性
などについても捜査する方針とのことです。
さて、次のニュースです」
テレビ画面に映し出されたニュースキャスターは、まるで退屈な本でも朗読するように
淡々と御手洗公子の失踪事件を伝えた。
御手洗公子の失踪事件は、同じ鹿原市で起きた斎藤尚記の失踪事件ほど大々的には報じられなかった。
老人の失踪事件など特集を組むほど重要な案件ではないと見なされているのか、
あるいは何らかの圧力が報道機関にかけられているのかはわからないが、
少なくとも斎藤尚記失踪事件のときほど報道は過熱しなかった。
喫茶ブラックキャットにいる人間も今回の事件にたいしてはほぼ無関心だった。
そもそも、同年代のサラリーマンの失踪事件にすら興味を持たない人種が、
老人の失踪事件なんかに興味を持つわけもないが。
ブラックキャットにいる人間は、みんなテレビに背を向けそれぞれコーヒーを飲みながら談笑していた。
だが、カウンター席に座る一人の男だけは例外だった。
男は食い入るようにしてテレビ画面をにらめつけたあと、ふと思いついたように
コートのポケットからメモ帳を取り出してそこに記された文字を眺めた。
男はしばらくの間メモ帳とにらめっこしていたが、やがて領収書をつかむと席を立った。
そして、店長に"ごちそうさん"と言ってから勘定を払いブラックキャットをあとにした。
もちろん、ブラックキャットにたむろするのんきな連中のなかにその男に注意を払う者はいなかった。
ただ"一人"をのぞいてはーー



青山がマンションのエレベーターに乗ろうとすると、突然、背後から声をかけられた。
青山が怪訝な表情で振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
年齢はだいたい30代ぐらいで、青いダウンのコートに黒のジーンズを身につけていた。
中肉中背で特にこれといった特徴のない顔立ちをしている。
髪は金色のセミロングで目は不自然なほどに虚ろだった。
「あんた、青山さんでしょ?」
男は単刀直入にそう訊ねてきた。
青山は男のほうに向き直り、口元に微笑を浮かべるとこう訊ねた。
「失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
男は鋭い目つきで青山を睨みつけると、青山の胸ぐらをつかんでこう言った。
「てめーがやってることはすべてお見通しなんだよ!」
青山は口元に微笑をたたえながらさらに訊ねた。
「私がやってること?
さて………なんのことでしょうか?」
男は怒ったように眉間にシワを寄せるとコートのポケットからバタフライナイフを取り出し、
青山の腹のあたりにつきつけてこう言った。
「とりあえず、このままてめーの部屋まで行くぞ。
詳しいハナシはそのあとだ。
変な真似してみろ?
その場で刺し殺してやるからな!」
「私の部屋まで行けばいいんですね?
わかりました」
青山はそう言うとエレベーターのボタンを押した。
しばらくすると、エレベーターの扉が開き青山は男と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターに乗っているあいだ、男は一言も口をきかなかった。
ただ黙って青山の背後にピタリとくっつくようにして立っているだけだ。
もちろん、先端が鋭く尖ったバタフライナイフは青山の腹部のあたりにつきつけられている。
青山はこの男がどこかの組織に雇われた鉄砲玉であると見当をつけていた。
しかし、バタフライナイフを握る手が震えているのと、妙に落ち着きのないソワソワした態度から
この男が"殺し"に慣れていない素人であるということも同時に見抜いた。
青山にとってこの男を"研究所送り"にすることは造作もないことだ。
だが、この男が"青山がやっていること"を知っているとなると大分ハナシは違ってくる。
研究所に送る前に、なるべくならこの男からたくさん情報を聞きだしておいたほうがいいだろう。
「さっき、私がやっていることを全部知ってると言ってましたよね。
それはどこまでですか?」
青山の問いにたいする男の答えは短く簡潔だった。
「ふたつの失踪事件」
"ふたつの失踪事件"
それが、斎藤尚記と御手洗公子の失踪事件のことを指していることに疑いの余地はなかった。
ここ最近起きた失踪事件といえば、このふたつ以外にないのだから。
もっとも、青山が過去に研究所送りにしてきた人間を数えあげたら両手の指では収まりきらない数になるが。
しかし、仮にこの男(とその背後にいる組織)が青山が過去に起こした失踪事件と
今回の失踪事件を結びつけて考えているとしたら、
"ふたつの失踪事件"という言葉はおかしくなる。
やはり、この男のいう"ふたつの失踪事件"とは斎藤尚記と御手洗公子の失踪事件のことを
指していると考えるべきだろう。
「………そうですか。
しかし、なんであなたは警察に届けないんですか?
私がふたつの失踪事件に関与していると考えているなら警察に届ければいいでしょう?」
「警察に届けたら金をむしりとれねえじゃねえか。
そんなこともわからねーのか?」
男は薄荷の匂いのするガムのようなものを噛みながらそう答えた。
多分、それは嘘だと青山は思った。
そもそも、本当に金銭目的ならこんなまわりくどい真似はしない。
証拠品を送りつけてから脅迫電話一本掛ければすむハナシなのだから。
わざわざ人に顔を見られる危険を犯してまでしゃしゃり出てくる必要はないのだ。
では、この男の真の目的はなんなのだろうか。
答えは明白だった。
恐らく、青山から"研究所"の情報を詳しく聞き出したあと、青山を自殺に見せかけて殺すつもりなのだろう。
だから、こんなまわりくどい真似をして青山に接触してきたのだ。
青山はしばしの沈黙を挟んでからこう答えた。
「そうですか…………」
そのあとは、二人とも無言だった。
エレベーターを降り、自宅の前まで移動すると青山はポケットから鍵を取り出した。
男はこのマンションのどこに監視カメラが設置されているかを熟知しているのか、
極力手に持ったバタフライナイフが監視カメラに映らないようつとめているようだった。
青山は鍵を穴に差し込みカチャリとまわした。
青山が扉を開けるより先に、男のほうが扉を開けるとなかば強引に青山を部屋のなかに押し入れた。
そして、リビングまでくると男はソファーにどかっと腰を下ろした。
「いい部屋に住んでるじゃねーか。青山さんよ。
ええ?」
男は青山に向かってそう言った。
しかし、男のその無駄な(迂闊と言っていいほど無駄な)行動が命取りになった。
青山は素早くカバンから拳銃を取り出すと男に突きつけてこう言った。
「人の部屋に勝手にあがりこんでおいてその態度はないんじゃないか?」
青山が突きつけたのは日頃から護身用として携帯していた拳銃である。
どうしようもなくなったときにだけ使えと、仕事始めの日に青山が例の男から渡されたものだ。
弾は三発装填されている。
男は驚いた様子で目を見開くとこう言った。
「拳銃………だと?」
「動くな。
そこから一歩でも動いたら射殺する」
機先を制して青山は男に警告した。
男の唇は小刻みに震えている。
「さあ、聞かせてもらおうか。
君がどこの組織の人間なのかをね」
「ふざけんじゃねぇ!
こんなことしてタダですむと思うんじゃねーぞ!」
言葉だけは威勢はいいが、その声にはどこか怯えのようなものが含まれている。
青山はゆっくりした足取りで男に近づくと、銃口を男の眉間にピタリとつきつけた。
「大声をだすな。撃つぞ」
男は何かいいかけたが言葉にならないようだった。
恐怖で口がワナワナと震えている。
「素直に教えてほしいなぁ。
君はいったい誰に頼まれてどうしてこんなことをしているのかをね。
まあ、教えたくないって言うならそれでも結構。
この場で死ぬだけだ」
青山はそう言うと銃口を男の眉間にめり込ませた。
「くそっ!」
男はそう言うと手に持ったバタフライナイフを青山に投げようとした。
しかし、男がナイフを投げるより一瞬はやく青山はバタフライナイフを男の手からはたきおとしていた。
男の手から落ちたバタフライナイフは、床に当たって一回だけバウンドするとそのまま転がった。
床に転がったバタフライナイフを青山はさらに遠くへ蹴り飛ばした。
バタフライナイフは部屋の隅の方でピタリと止まった。
しかし、青山がバタフライナイフを蹴った瞬間、ほんの数cmだけ拳銃の照準がずれてしまった。
男はその隙をついて青山に殴りかかってきた。
しかし、ただ力任せに叩き込むだけの右ストレートは控えめに言ってもお粗末なシロモノだった。
映画のアクション俳優のほうがもう少しまともなパンチを放てるのではないかと青山は思う。
青山は男の拳を掌で受け止めると、そのまま男の腕を反転させてねじあげた。
「いてててて!」
男は悲鳴にちかい声をあげた。
所詮はただのチンピラである。
この男なら少し締め上げてやれば簡単にボロをだすだろう。
青山は男の腕をねじあげたままこう訊ねた。
「このまま関節ごと君の腕をねじきることだってできるんだよ。
まさに君は絶体絶命というわけさ。
さあ、教えてもらおうか。
君はいったいどこのどいつで、誰に頼まれて僕の命を狙いにきたのかを」
金髪の男はしばらくあがき続けていたが、やがて観念したのかおとなしくなった。
男は絞りだすような声でこう言った。
「………ダチに頼まれたんだよ。
お前を殺してこいって…………な。
気は進まなかったが、金もたくさん持ってるからついでに金もぶんどれるっていうんで引き受けた」
「そうか。
じゃあ、君のお友だちをここに呼んでもらおう」
金髪の男は再び暴れだした。
「………ふざけんな!そんなことできるわけねーだろ!
そんなことしたら俺は殺されちまう!」
青山は自分のケータイを(締め上げてないほうの)男の手に無理矢理持たせるとこう言った。
「呼んでもらおうか」
「だから…………うぎゃっ!」
男の腕が脱臼する不気味な音が部屋中に響きわたった。
「次は本当にねじきるよ?
腕一本なくしたくなけりゃ黙って電話しな」
「うう………」
男はうめき声をあげながら渋々ケータイを指で動かしはじめた。
男がケータイをいじるのを青山は黙って見ていた。
やがて、男はケータイを耳にあてた。
電話のコール音が3、4回ほど鳴り響いたあと、一人の男が電話にでた。
「どうだ………?うまくやったか?」
「しくじっちまった………」
「マジか!」
「場所は………」
男はそこまで言うと、青山の顔を一度だけチラリと見てからこう続けた。
「鹿原市一丁目の13番地にあるマンションの26階。
エレベーターから降りて3番目の部屋だ」
「ごくろうさん」
青山は男の手から無造作にケータイを取りあげると通話を切った。
男は青山を睨み付けると吐き捨てるようにこう言った。
「てめえ………。こんなマネしてあとでどうなるかわかっているんだろうな?
俺に仕事を依頼した人はとんでもねえ大物だぜ。
下手したらこのマンションごと爆破するかもしれん。
そういうことを平気でやる人なんだ、あの人は………」
「へぇ、それはおもしろいねぇ」
青山は口元に微笑を浮かべながらそう言った。
「おもしろい、だと……?」
男は驚いた表情で青山の顔を見る。
「ああ、おもしろいねぇ。
それだけ大規模な爆破事件を起こせば警察も動かないわけにはいかないだろうからな」
男は鼻で笑ってきた。
「てめえ、あの人から逃げられると本気で思っているのか?
あの人はたとえ警察に捕まっても、てめえを八つ裂きにするまで後を追ってくるだろうぜ。
あの人に目をつけられたら最後、死ぬまで生き地獄を味わうことになるんだよ。
どっちにしろお前はもう終わりだ」
「じゃあ、僕が生き残るにはそいつを潰すしかないってことだね」
青山がそう言うと男はバカにしたような顔でこう言った。
「はっ!てめえごときが潰せるわけねーだろ!
あの人のバックには大物政治家や聖女教会の教皇までついてるんだぜ。
なんせあの人は敬虔なサラニストだからな。
返り討ちにあうのがオチだ」
「そうか…………。やっぱり今回の件には聖女教会が絡んでいたか。
ということは、いよいよ全面戦争になるかもしれないな」
「ああっ!?全面戦争だと?
何寝ぼけたこと言ってやがる!
てめえが始末されて終わりだよ。
もっとも、世間的には今回の連続失踪事件の犯人で海外逃亡の末に自殺ってことになるだろうがな」
青山には男の戯れ言など耳にはいらなかった。
「聖女教会か…………。
本当はこんなことやりたくないんだけど仕方ないよな。
いつかはどうにかしなければならない連中だったしな。
弱肉強食・盛者必衰がこの世の常であり本質………。
これも"神"が定めた運命と言えばそうなのかもしれないな。
もっとも、"本物の神"は人間の世界に介入するような野暮なマネはしないだろうけど」
男はさらに何かわめいていたが青山の耳には入らなかった。
青山は微笑を浮かべたまま男に向かってこう告げた。
「君には研究所へきてもらう」

ペラドンナ~第ニ章~

ーー先週から行方がわからなくなっている共栄(きょうえい)都金光(かねみつ)市在住の斎藤尚記(さいとうなおき)さんについて新情報です。
関係者の証言より斎藤さんは同僚と行きつけの居酒屋で別れたあと、
鹿原(かばら)市にあるバー"らびっと"に入店した可能性が高いことが明らかとなりました。
警察は"らびっと"の店員から詳しい事情を聞くとともに、斎藤さんの行方を捜査する方針とのことです」
鹿原駅の駅前にある小さな喫茶店"ブラックキャット"。
ここには一人の店主と一匹の黒猫と数人の客がいた。
店主は40代後半ぐらいの体の大きな男で、緑色の淡いチェックのシャツにオーバーオールを身につけていた。
顔はふっくらとしているが、目尻まで垂れ下がった眉毛とつぶらな瞳が温厚な印象を見る人に与える。
カウンター席のひとつに体を丸めて寝ている猫は、この店の看板猫だった。
ブラックオパールのような黒い体毛に、サファイアのような透き通った青い瞳を持つこの猫は今年で10歳になる。
猫はこの店が開店してから10年間、この店の看板猫として働いているのだ。
店にはこの二人(一人と一匹)のほかに、テーブル席に座って他愛のない世間話をしている40代ぐらいの女性客四人組と、
カウンター席に座った年齢のよくわからない作業服を着た男が一人。
それから、左端のカウンター席に座ってなにやらヒソヒソ話をしているサラリーマンらしき男の二人組がいた。
16インチほどの小さなテレビに映し出された女が真剣な表情で原稿を読み上げるのを尻目に、
そのなかの誰もがあるいはコーヒーを飲み、あるいは読書をし、あるいは他愛のない世間話をしていた。
彼らは、自分たちが今いるこの土地で失踪事件が起きたという事実にたいして
これっぽっちも関心を抱いていないようだった。
だから誰も気づかない。
店内にいる一人の男が16インチほどの小さなテレビを鋭い眼差しで見つめていることにーー



日曜の朝の9時に突然インターフォンのベルが鳴り響いた。
青山がインターフォンのスイッチを押してモニターを見ると、
そこには70歳前後と思われる妙に身なりのいい痩せた老婆の姿が映し出されていた。
青山は怪訝な表情を浮かべながらインターフォンのモニターに映る老婆に向かって尋ねた。
「………はい。どちらさまでしょうか?」
「あら、こんにちは。
わたくし聖女教会牛神派の御手洗(みたらい)と言うものです。
聖女教会牛神派について少しだけお話をさせていただきたいのですがいかがでしょうか?」
聖女教会というのは世界的に有名な偶像崇拝の宗教である。
この世に存在するすべてのものは神の使徒である聖女"サラ"によって産み出された、というのが聖女教会の基本的な理念だ。
聖女教会は数ある宗教団体のなかでも随一の信者数をほこる。
主要国の首脳のほとんどが聖女教会の信者ということもあり、各国への影響力も絶大だ。
もっとも、その聖女教会も一枚岩というわけではなくいくつかの分派に分かれている。
聖女派だとか牛神派だとかそういうのだ。
そのなかでもノン・クリフトを神として崇めているのはカルト宗教色の強い牛神派だ。
牛神派は、聖女教会の異端的存在として百年ほどまえにできたとされる。
彼らによれば近い将来ノン・クリフトの再臨によって世界は終末を迎え、その後、
ノン・クリフトに選ばれた者のみが生き残り、新たにこの地球上にエデンの園を創造するということだった。
強烈な選民思想と強引な勧誘で有名な宗教団体で、あちこちでトラブルを起こしているというハナシをよく耳にする。
青山が知人から聞いたハナシによれば、なんでも彼らの権力構造はピラミッド式になっており、
勧誘をして信者を増やせば増やすほど上位に昇格できる仕組みになっているということだった。
「あっ………!ちょっと今日は用事があるのでそのハナシはまた別の機会にでも」
青山はそう言うとインターフォンのスイッチを切った。
しかし、インターフォンのスイッチを切るのと同時に先ほどの老婆の声が響きわたった。
「ごめんください。
お兄さん、ちょっとだけでいいですからお話を聞いていただけませんか?
すぐすみますから…………ね?」
老婆のわりには意外としっかりした声である。
青山はしぶしぶ玄関へと向かった。
玄関を開けると、そこには白い日除け帽にピンク色のブラウスと白くて丈の長いスカートを履いた老婆が立っていた。
老婆は青山の顔を見ると、パッと明るい表情を見せて会釈してきた。
「あら、こんにちは。
あらためまして、わたくし聖女教会牛神派の会員御手洗というものです」
そう言うと、老婆は青山にまるで使いふるされてシワだらけになったハンカチのような微笑みを投げかけてきた。
「ええ……はい」
「これから用事があるとのことなので、わたくしどもの理念について手短に説明させていただきますね」
「急いでいるのでできれば手短に」
青山がそう言うと老婆は深くうなずいた。
「わかりました。
では、まず簡単な質問をさせていただきます。
あなたはダーウィンの進化論をご存じですか?」
青山はうなずいた。
「あれは真実だと思いますか?」
「うーん……わかりませんね。
真実かもしれないですし真実ではないかもしれません。
そうとしか考えられないところもありますが、実際に猿が人間に進化するところを見たことがあるわけではないのでなんとも言えません」
「あら、まあ!」
老婆はそう言うと目を大きく見開いた。
それから、こんなことを言ってきた。
「あなたは見かけによらずかなり"聡明な"お方なのですね。
わたくし感服いたしましたわ。
あなたのおっしゃるとおりダーウィンの進化論は真実ではないです。
あんなものはデタラメです。
そもそも、知性のない猿なんかがどうして人間に進化することができるのでしょうか?
人間には慈悲心も学習能力もあるけど猿には何もありません。
猿にあるのは本能だけです。
猿は何千年、あるいは何万年経とうが猿のままなのです。
あなたもそう思うでしょう?」
青山は少しだけ間をあけてからわずかにうなずいた。
「では、もうひとつ質問です。
この世界を形づくっているモノはなんでしょうか?」
「この世界って………地球のことですか?」
老婆は深くうなずいてからこう答えた。
「ええ、そうです。母なるこの地球です」
「えーっと……水と鉱石と酸素と二酸化炭素と窒素かな?
あとは、ガスとか放射線とか……」
老婆は神妙にうなずいてからこう言った。
「そのとおりです。
さらに細かく言うとたんぱく質だとかそういう有機質ですね。
そのどれかひとつでも欠落するとこの世界は成り立たなくなるわけです。
偶然にしてはあまりにもできすぎていますよね。
あなたはこれらのものすべてが偶然に産み出されたと思いますか?」
青山はしばらく考えてからこう答えた。
「わかりません」
老婆は満足そうにうなずくとこう言ってきた。
「現代の科学ではこれらのものがすべて偶然の産物だなどと嘘八百を並べ立てていますが、そんなわけはないのです。
すべてはノン・クリフト様が創造なされたのです。
ところで、ノン・クリフト様のことはご存じですよね?」
青山はうなずいた。
「そうです。あのノン・クリフト様です。
偉大なるノン・クリフト様はまず地球を創造なされました。
そして次に神に似せて人類を創造なされたのです。
そう考えればすべての疑問は解決しますよね」
「あの………そろそろ時間が」
青山はポツリとそう呟いた。
すると、老婆は驚いたように目を見開いてこう言った。
「まあ!大変!」
それから、老婆は慌てて肩に掛けた小さなショルダーバッグを開くと中から一冊の小冊子をとりだした。
「とりあえず、これをお読みになっていただければわたくしたちの理念はだいたいご理解いただけるかと」
老婆はそう言うと小冊子を青山に渡してきた。
青山は仕方なくそれを受け取った。
「あっ………どうも………」
「次に訪問するときまでに必ず読んでおいてくださいね。
その冊子を読んでおかないと、これから先のハナシにはついてこれないと思いますから。
それでは失礼します」
老婆はそう言って丁寧に頭をさげると玄関の扉を開け出て行った。
青山は急いでリビングまでいくと、インターフォンのモニターのスイッチをいれた。
モニターには老婆が扉を閉めてエレベーターの方へ向かう姿が映しだされていた。
青山は老婆がモニターから消えるのを確認してからモニターのスイッチをきると、
ホッとしてリビングのソファーに腰をおろした。
さっそく、さきほどの老婆がよこした小冊子をパラパラとめくってみる。
小冊子には、全能の神であるノン・クリフトがどのようにして地球を創造したかや、
ノン・クリフトの起こした様々な奇跡などが詳細に書かれていた。
たった10ページほどの冊子なのに、よくこれだけの内容をつめこんだものだなと青山は感心した。
"(この小冊子の制作者は)もしかしたら広告代理店にでも勤めているのかもしれない"
ふとそんな考えが頭をよぎった。
ありえないハナシではなかった。
やがて、冊子を読むのに飽きると青山は小冊子をテーブルの上に無造作に放り捨ててソファーに背中を預けた。
それから、天井を見つめながら聖女教会について思い巡らせた。
青山は聖女サラにもその息子のノン・クリフトにもどうしても関心を抱けそうもなかった。
そもそも、どうして聖女教会牛神派がノン・クリフトを神などと思えるのか青山にはさっぱり理解できない。
ノン・クリフトなどナルシストでエゴイストな"もっとも人間らしい下等生物"ではないかと青山は思う。
ノン・クリフトのような俗物を神といってしまえば、その瞬間、人間にとって神とはただの俗物の呼称にすぎなくなる。
青山はふと思いついたようにテレビをつけてみた。
チャンネルを報道番組に合わせると、ちょうど鹿原市で行方がわからなくなっている40代の男についての特集が組まれており、
顔を隠した男の同僚らしき人物が涙を浮かべながらインタビューに応じていた。
"(斉藤さんは)よく飲み会の幹事をやったり、冗談を言って職場の雰囲気を和ませたりしてくれてました。
本当にいいヤツでした。
はやく見つかってほしいです"
人前で泣く人間を青山は信用していない。
むしろ、この取材を受けたことでいったいいくらがこのくだらない男に支払われたのだろうかと青山は考えた。
恐らく数十万はわたったに違いない。
それから、異常犯罪心理学者というわけのわからない肩書きのパネリストが
"犯人は愉快犯ではないか。
酔いつぶれている斎藤さんを路上で偶然見つけ、通り魔的にどこかへ連れて行って殺害した可能性が高い"
などと神妙な面持ちでコメントしていた。
それを見た青山は失笑せずにはいられなかった。
"愉快犯?"
"とんでもない"
"これはれっきとした仕事なんだよ"
"新しい世界を創るための"
もっとも、警察は(一般人もだけど)青山が籍を置く例の研究所を永久につきとめることはできないだろう。
なぜなら、あの研究所には有名な大企業の社長だけでなく政界の要人までもが絡んでいるのだから。
もっとも、表向きはある一人の男によって設立されたことになっているが。
その男はユートピアクリエイターというよくわからない肩書をもった男だった。
その男がどこの何者なのか青山は知らない。
ただ、日月(ひげつ)商事の幹部の一人であるということだけは確かな事実だった。
実際に青山が日月商事のサイトにアクセスして調べたのだ。
もっとも、日月商事の幹部リストに名を連ねているというだけで、
サイトにはその男の経歴などはいっさい掲載されていなかったが。
賢い連中は決して目立とうとしない。
どんな小さなほころびであれ、それがいつか自分にとって致命傷になることを知っているからだ。
そんなわけで、青山はその男が日月商事の幹部であるという程度しか知らない。
しかし、あの男の下で働いているだけで月数十万の家賃と生活費とその他の雑多な出費を補うことができ、
なおかつあまった金を貯金するほどの額が手にはいった。
あの男は金を腐るほど持っていた。
それは、たとえ日月商事の幹部だとしても到底持つことのかなわないであろう金額だった。
その金がどこから流れてきているのか青山には知るよしもない。
恐らく、あの男の友人である政財界の要人が莫大な額の金を研究所に投資しているのだろう。
もっとも青山にとってそんなことはどうでもよく、ただ自分と似たような思想をもつ男の下で働きながら
なおかつ贅沢な生活ができるというだけで満足だった。
実際にこれ以上おあつらえむきの仕事があるだろうかと青山は思う。
そもそもあの男と出会うまで青山は、先日の例のサラリーマンと同じような無様な生活を送っていたのだ。
青山はその男に出会った日のことを今でも鮮明に思い出すことができる。
あれは7年前の冬。
とある大国の大統領に黒人が始めて選出されたときのことだった。
「この世界を変えてみないか?」
男はそう言って青山に話しかけてきた。
場所は住宅地の中にある公園だった。
「えっ……?今なんていいました?」
「世界には自由主義という思想がはびこっている。
人々は様々な困難に立ち向かい自由を手にいれた。
その先に希望があると信じて……。
しかし、現実はどうだろう。
人々は豊かさを謳歌する一方で、精神的には何一つ満たされていないのではないかと思う。
欲望というものは留まることを知らずどんどん膨れ上がっていくものだからな。
そこには終わりというものがないのだ。
結局、人間は自由主義という幻想を抱きながら現実は目の前にぶら下げられた
肉の塊を追いかけるただの動物になりさがってしまったのだよ。
今の人間は、人間としての尊厳が著しく損なわれてしまっている状態にある。
そこで私は、人間が人間としての尊厳を取り戻すために新しい世界を創造しようと思っている」
青山は男の顔を見たまま釘付けになってしまった。
と言っても、男の発言があまりにも荒唐無稽だったからではない。
むしろ、男が発言したことと全く同じことを青山も考えていたためだ。
男は青山の目を真っ直ぐ見つめるとこう言った。
「キミもまったく同じことを考えていたのだろう?
違うかね?」
まるで心を見透かされているようで、青山が呆気にとられて何も言えずにいると男はこんなことを言ってきた。
「そんなことはキミの目を見ればわかる。
どうだ?
キミも私と一緒に新たな世界を創造してみないか?」
青山はゆっくりとうなずいてみせたーー
青山はソファーから立ち上がると窓辺へと移動した。
30階建てのマンションの26階。
4LDKの広い部屋で家賃は月ウン十万はする。
ふと先ほどの老婆の演説の一節が脳裏をよぎった。
"偉大なるノン・クリフト様はまず地球を創造なされました"
"そして次に神に似せて人類を創造なされたのです"
青山は、そう説く老婆の真剣な顔を思い出しながら一人でほくそ笑むとこう呟いた。
「新しい世界を創造するのは神でもなければクリフトでもないさ」
それから青山は眼下に広がる都の街並みを見おろした。
「ぼくらだよ」
マンションの26階から眺める都の風景は悪くない眺めだった。


それから、数週間は何事もなく平穏な日々が続いた。
しかし、平穏ということはすなわち何も物事が進展していないということでもある。
もっとも、この前公園で出会ったあのなんとかいうサラリーマンのような人種にとっては、
平穏こそが至高でありなによりも渇望しているものなのだろうが。
青山は今日も鹿原から伊賀野まで夜通し歩いたが、めぼしい獲物は見つからなかった。
サラリーマンの失踪事件がメディアなどで大々的に報じられて以降、
人々は仲間を屠殺された家畜のように神経質になっているようだった。
深夜の遅い時間に酔いつぶれた酔っ払いが一人でふらついているようなことはなかったし、
夜遅くまで残業していた女性会社員が一人で帰宅するということもなかった。
まだ殺されたと確定してるわけではないのに臆病なものだな、と青山は思った。
一人だけチンピラのような人間に出会ったが素材が悪かったので手出しはしなかった。
だれかれ構わず手当たり次第に研究所に送りこめばいいというものでもないのだ。
結局、なんの収穫もないまま伊賀野から鹿原市のマンションまで青山が帰ろうとしたとき
背後から声をかけられた。
「おい、そこのスーツ着たの。
ちょっとハナシを聞かせてもらおうか」
青山が振り返ると、そこには茶色い革のジャケットにジーンズというイデタチの一人の男がいた。
年齢はだいたい40才ぐらいだろうか。
髪を短く刈り上げ、濃くて形のいい眉毛と大きくて迫力のある目を持っていた。
中堅俳優あたりにいそうなハンサムな顔立ちだった。
青山は怪訝な表情でこう尋ねた。
「はい。なんでしょうか?」
男は青山のそばまで近寄ると、ジャケットの胸ポケットから
警察手帳をとりだし、青山につきつけた。
「今ここで何をしていた?」
青山は即座に目の前にいるこの男が私服警官であることを察知した。
男は疑わしげな視線を青山に向けていた。
青山は咳払いするとこう答えた。
「会社からの帰りですよ。どうしてですか?」
「身分証明書を提示してもらおうか」
青山は胸ポケットから運転免許証をとりだすと男にわたした。
男は運転免許証と青山の顔を交互に見ながらこうたずねた。
「ここで何をしていたんだ?」
「会社の帰りですよ」
「こんな遅い時間にか?なんという会社だ?」
「日月(ひげつ)商事の一二三(ひふみ)研究所って言えばおわかりになりますでしょうか?」
青山は男の目を見つめながらそう言った。
男は眉間にシワをよせるとこう訊ねてきた。
「日月商事ってあの?」
「はい、そうです。あの日月商事です。
日月商事は世間体はいいですが内情はぐちゃぐちゃでしてね。
サービス残業なんか日常茶飯事なんですよ。
今日もばっちり20時間仕事をしてきました。
なんなら名刺を見せましょうか?」
男はうなずいた。
青山は胸ポケットから名刺をとりだすと男に見せた。
男は名刺を子細に検分してから青山にかえした。
「そうか…………わかった。
いや、日月商事に一二三研究所なるものが存在するとは知らなかったものでね。
しかし、日月商事とこことでは大分距離があるようだが?」
「日月商事の一二三研究所は伊賀野にあるんですよ。
私の家は鹿原市にあるのでこれから歩いて帰宅するところです。
電車はもう動いてないですからね」
男はしばらく腕を組み何ごとか考えてから再びたずねてきた。
「いつもそんなに遅くなるのか?」
「まあそうですね。何しろ忙しい会社ですから」
「9月18日の夜は何時頃帰宅したんだ?」
男はさりげない風を装いつつ、恐らく一番知りたいであろう質問を投げかけてきた。
青山は表情を変えることなくこう答えた。
「だいたい午前3時~4時ごろですかね。
そういえばあの夜は鹿原市で失踪事件があったんでしたよね?
もしかしたらあの事件の捜査をしているんですか?」
男は青山をジロリとにらみつけるとこう言った。
「そんなことをお前が知る必要はない」
「まあ、確かにそうですね。
知る権利は誰にでもありますけど、いまはどうしても知りたいってわけではありませんし」
青山はしたり顔でそう言った。
もしかしたら、殴られるかもしれないと思ったがそうなったらそうなったでだいぶこちらが有利になる。
しかし、予想に反して男は青山の挑発には乗ってこなかった。
意外と冷静なのかもしれない。
「もう少しだけ詳しい話を聞かせてもらおうか。
9月18日の夜にお前はどこで何をしていたのか?
そして、なぜ帰宅がそんなに遅くなったのかを」
「さっきも言ったとおり残業ですよ。
あの日の夜も仕事がとても忙しかったから帰宅が遅くなったんです。
家について時計をみたら4時すぎててビックリしました。
もっとも、翌日のニュースで鹿原で失踪事件が起きたと聞いたときはもっとビックリしましたけどね。
本当に物騒な世の中ですよね。
私の家の近所で起きた事件だから不安です」
男は一度だけうなずくとさらにこう質問してきた。
「つまり、9月18日の夜は遅くまで残業していて家についたのが午前4時だったというわけだな。
日月商事から家までは真っ直ぐ帰宅したのか?」
「帰宅途中にスターフォーチュンに立ち寄りました。
急に温かい飲み物が飲みたくなったので。
確かあのときは3時半ごろだったかな。
あまりはっきりとは覚えてないですけど」
警察手帳を持った男は眉間にシワを寄せて何事か考え込むと、しばらくしてからこう訊ねてきた。
「おまえがスターフォータュンに立ち寄ったことを証明するものはあるか?」
「スターフォーチュンのレシートなら持ってますよ。
見せましょうか?」
男は黙ってうなずいた。
青山はポケットから財布をとり出すと、雑多な紙束のなかからスターフォーチュンのレシートを抜き出した。
「僕、家計簿とかつけないんでレシートや領収書を一々取っておくんです。
そうすれば一月のうちにどれだけ出費したのか一目でわかりますからね」
男は青山の手からレシートを取りあげると、真剣な眼差しで目をとおした。
やがて、レシートを青山に返すとこう言った。
「なるほど。つまり3時半ごろにはスターフォーチュンにいたわけだな?」
「レシートに書いてあるとおりです。
9月18日の午前3時半ごろ、私はスターフォーチュンでホットキャラメルを飲んでいました」
男は青山をジロリと睨むとこう言った。
「俺はお前の証言を聞いているんだが?」
「それなら先ほど説明したはずですけど」
男は怒気を含んだ口調でこう言った。
「再確認してるところだ。
一応釘を刺しておくが、そんな紙きれなんかいくらでも偽造できるんだからな。
参考にはなるが決定的な証拠にはならん」
「わかりました。
では、もう一度証言させてもらいます。
私は9月18日の午前一時すぎまで働いて、会社を出てからはそのまま帰宅するつもりでしたが、途中で疲れたのでスターフォーチュンに立ち寄りました。
スターフォーチュンにはだいたい30分ぐらいいましたかね。
スターフォーチュンを出たのは3時半を過ぎていたと思います。
そこからは家まで真っ直ぐ帰りました」
警察手帳を胸ポケットにしまいながら男はうなずくとこう言った。
「長いことひきとめて悪かったな。もう帰っていいぞ」
「では、ごきげんよう」
青山はそういい残すとそのまま帰宅した。
帰宅したときに時計を見ると時針は午前3時をさしていた。


例の牛神教の老婆が青山の家にやってきたのは翌週の日曜日の午前10時のことだった。
その日の老婆は、シルクのワンピースの上にピンク色のカーディガンを羽織り
つばの広い白いチューリップ帽を被っていた。
「こんにちは」
老婆はモニター越しにあいさつしてきた。
「こんにちは」
青山は笑顔でそう答えた。
「先日、お訪ねした牛神派の者ですが、小冊子はちゃんと読んでいただけましたでしょうか?」
青山は口もとに微笑を浮かべながらこう答えた。
「ええ、読ませてもらいましたよ」
「では、わたくしたちの理念はだいたいご理解いただけましたね。
今からご入会の手続きの方法等を説明したいのでドアを開けてもらってもよろしいですか?」
「いや、ちょっと待ってください。
確かにあなたたちの理念は理解できました。
ただ、あいにく私には牛神教の理念は到底受け入れがたいものでしてね。
そもそも、ノン・クリフトが神だなんてありえないですよ。
ノン・クリフトは色情魔であり悪魔に魂を売った人間の一人です。
いや、悪魔そのものというべきでしょうか」
青山がそう言った瞬間、モニター越しに映る老婆の表情がさっと強ばるのがみえた。
「あなたはいったい何を言ってらしゃっしゃるの?」
今までの猫をかぶった声はなりを潜め、かわりに年相応の嗄れた声で老婆はそう言った。
「クリフトは悪魔だと言ったんですよ。
実際、あの俗物以上の悪魔がこの世にいますか?
隣人を愛せ?愛によって人間は救われる?
そんなのハッタリです。
そもそも愛があれば争いはなくなりますか?
愛によって人間は本当に救われますか?
愛の重要性を説く聖女教徒が聖女教を世界中に布教した結果どうなりました?
かえって争いの絶えない世の中になったのではないですか?」
老婆は金切り声でこう言った。
「クリフト様は悪魔なんかじゃないです!
聖女教については私にも思うところはあります。
聖女教は聖書を歪曲して間違った教えを広めていますからね。
ですから、真実の伝導者である私たちのような牛神派が誕生したんです。
聖女教の誤った教えをタダスためにです。
そもそも、聖女教の犯した罪がそのままクリフト様の罪になるわけではありません。
あなたが言ってるのはただの暴論よ」
「でも、ノン・クリフトの説く"愛の教え"が聖女教を生んだのは事実ですよ。
そして、大きくなった聖女教が他の宗教を排除するためにあの手この手で殺戮を繰り返してきたのも。
卍軍の遠征なんかその最たる例です。
もちろん、愛を全否定するつもりはないです。
愛というものが人間にとって大事なもののひとつであることは認めます。
ただ愛にはトゲのようなものが含まれていると思うんです。
ほら、よく言うでしょう?
綺麗なバラにはトゲがあるって。
見た目は美しいけど触れるとトゲが刺さる。
愛はまさにそのとおりなんです。
いや、愛はバラよりもっとヒドイです。
愛とはいわば、美しい見かけとは裏腹に猛毒を含んだペラドンナのようなものです」
老婆は睨み付けるような鋭い目つきでモニター越しに青山を見ていた。
その鋭い目つきのなかには激しい憎悪が見てとれる。
"まさにこれだ"と青山は思った。
狂信者は自分の信じるもの以外は絶対に存在してはならないと考える。
それこそが聖女教の説く"愛の教え"のなかに含まれた猛毒なのだ。
「何か反論することはありますか?」
老婆は怒りに身を震わせながらこう言った。
「もう結構でございます。
小冊子を返していただけますか?
あなたにこれ以上クリフト様をケガされたくありませんので」
青山はリビングに移動すると、テーブルのうえに置きっぱなしになっている小冊子を拾い上げた。
それから、玄関まで再び戻ってくると老婆に渡した。
「それではごきげんよう」
青山は会釈をしながらそう言った。
老婆は小冊子をひったくるようにして奪うと、
青山の顔さえろくに見ずにそそくさと玄関の扉を開けて出ていった。
老婆が消えた途端、部屋のなかに静寂がおとずれた。
だがしかし、ここでコトをスンナリ終わらせるつもりは青山にはサラサラなかった。
青山はすばやくインターフォンのそばまで移動すると、モニターのスイッチをいれて外の様子を観察した。
モニターにはエレベーターへ向かう老婆の姿が映し出されていた。
青山は音を立てないようにそっと(しかも小さく)扉を開けると老婆の様子を観察した。
老婆は意外としっかりした足取りでエレベーターの前まで歩いていくと、
そこで立ち止まってエレベーターのボタンを押した。
青山は老婆がエレベーターのボタンを押すところまで確認してからすぐさま扉を閉めた。
そして、扉に背をあずけエレベーターがこの階にきて老婆がエレベーターに乗るところまでを頭のなかに思い描いた。
休日でエレベーターの利用者が多いことを考えると、老婆がエレベーターに乗るまでだいたい5分か10分といったところだろう。
7分経つまで青山は扉に背を預けて腕組みしながら辛抱強く待った。
やがて、7分が経過しそっと扉を開けてもう一度外の様子を窺った。
老婆の姿は既になかった。
エレベーターに乗ったようだ。
青山は扉を開けて外にでると、急いでエレベーターの前まで行き
老婆の乗ったエレベーターがどこで止まるかを確認した。
エレベーターはどんどん下に降りていきやがて1Fで止まった。
青山はすばやくエレベーターの前まで行き、エレベーターを呼ぶボタンを押すとエレベーターの到着を待った。