フェンリルのブログⅡ

小説とガーデニングが好きな変人のブログです

ペラドンナ~第ニ章~

ーー先週から行方がわからなくなっている共栄(きょうえい)都金光(かねみつ)市在住の斎藤尚記(さいとうなおき)さんについて新情報です。
関係者の証言より斎藤さんは同僚と行きつけの居酒屋で別れたあと、
鹿原(かばら)市にあるバー"らびっと"に入店した可能性が高いことが明らかとなりました。
警察は"らびっと"の店員から詳しい事情を聞くとともに、斎藤さんの行方を捜査する方針とのことです」
鹿原駅の駅前にある小さな喫茶店"ブラックキャット"。
ここには一人の店主と一匹の黒猫と数人の客がいた。
店主は40代後半ぐらいの体の大きな男で、緑色の淡いチェックのシャツにオーバーオールを身につけていた。
顔はふっくらとしているが、目尻まで垂れ下がった眉毛とつぶらな瞳が温厚な印象を見る人に与える。
カウンター席のひとつに体を丸めて寝ている猫は、この店の看板猫だった。
ブラックオパールのような黒い体毛に、サファイアのような透き通った青い瞳を持つこの猫は今年で10歳になる。
猫はこの店が開店してから10年間、この店の看板猫として働いているのだ。
店にはこの二人(一人と一匹)のほかに、テーブル席に座って他愛のない世間話をしている40代ぐらいの女性客四人組と、
カウンター席に座った年齢のよくわからない作業服を着た男が一人。
それから、左端のカウンター席に座ってなにやらヒソヒソ話をしているサラリーマンらしき男の二人組がいた。
16インチほどの小さなテレビに映し出された女が真剣な表情で原稿を読み上げるのを尻目に、
そのなかの誰もがあるいはコーヒーを飲み、あるいは読書をし、あるいは他愛のない世間話をしていた。
彼らは、自分たちが今いるこの土地で失踪事件が起きたという事実にたいして
これっぽっちも関心を抱いていないようだった。
だから誰も気づかない。
店内にいる一人の男が16インチほどの小さなテレビを鋭い眼差しで見つめていることにーー



日曜の朝の9時に突然インターフォンのベルが鳴り響いた。
青山がインターフォンのスイッチを押してモニターを見ると、
そこには70歳前後と思われる妙に身なりのいい痩せた老婆の姿が映し出されていた。
青山は怪訝な表情を浮かべながらインターフォンのモニターに映る老婆に向かって尋ねた。
「………はい。どちらさまでしょうか?」
「あら、こんにちは。
わたくし聖女教会牛神派の御手洗(みたらい)と言うものです。
聖女教会牛神派について少しだけお話をさせていただきたいのですがいかがでしょうか?」
聖女教会というのは世界的に有名な偶像崇拝の宗教である。
この世に存在するすべてのものは神の使徒である聖女"サラ"によって産み出された、というのが聖女教会の基本的な理念だ。
聖女教会は数ある宗教団体のなかでも随一の信者数をほこる。
主要国の首脳のほとんどが聖女教会の信者ということもあり、各国への影響力も絶大だ。
もっとも、その聖女教会も一枚岩というわけではなくいくつかの分派に分かれている。
聖女派だとか牛神派だとかそういうのだ。
そのなかでもノン・クリフトを神として崇めているのはカルト宗教色の強い牛神派だ。
牛神派は、聖女教会の異端的存在として百年ほどまえにできたとされる。
彼らによれば近い将来ノン・クリフトの再臨によって世界は終末を迎え、その後、
ノン・クリフトに選ばれた者のみが生き残り、新たにこの地球上にエデンの園を創造するということだった。
強烈な選民思想と強引な勧誘で有名な宗教団体で、あちこちでトラブルを起こしているというハナシをよく耳にする。
青山が知人から聞いたハナシによれば、なんでも彼らの権力構造はピラミッド式になっており、
勧誘をして信者を増やせば増やすほど上位に昇格できる仕組みになっているということだった。
「あっ………!ちょっと今日は用事があるのでそのハナシはまた別の機会にでも」
青山はそう言うとインターフォンのスイッチを切った。
しかし、インターフォンのスイッチを切るのと同時に先ほどの老婆の声が響きわたった。
「ごめんください。
お兄さん、ちょっとだけでいいですからお話を聞いていただけませんか?
すぐすみますから…………ね?」
老婆のわりには意外としっかりした声である。
青山はしぶしぶ玄関へと向かった。
玄関を開けると、そこには白い日除け帽にピンク色のブラウスと白くて丈の長いスカートを履いた老婆が立っていた。
老婆は青山の顔を見ると、パッと明るい表情を見せて会釈してきた。
「あら、こんにちは。
あらためまして、わたくし聖女教会牛神派の会員御手洗というものです」
そう言うと、老婆は青山にまるで使いふるされてシワだらけになったハンカチのような微笑みを投げかけてきた。
「ええ……はい」
「これから用事があるとのことなので、わたくしどもの理念について手短に説明させていただきますね」
「急いでいるのでできれば手短に」
青山がそう言うと老婆は深くうなずいた。
「わかりました。
では、まず簡単な質問をさせていただきます。
あなたはダーウィンの進化論をご存じですか?」
青山はうなずいた。
「あれは真実だと思いますか?」
「うーん……わかりませんね。
真実かもしれないですし真実ではないかもしれません。
そうとしか考えられないところもありますが、実際に猿が人間に進化するところを見たことがあるわけではないのでなんとも言えません」
「あら、まあ!」
老婆はそう言うと目を大きく見開いた。
それから、こんなことを言ってきた。
「あなたは見かけによらずかなり"聡明な"お方なのですね。
わたくし感服いたしましたわ。
あなたのおっしゃるとおりダーウィンの進化論は真実ではないです。
あんなものはデタラメです。
そもそも、知性のない猿なんかがどうして人間に進化することができるのでしょうか?
人間には慈悲心も学習能力もあるけど猿には何もありません。
猿にあるのは本能だけです。
猿は何千年、あるいは何万年経とうが猿のままなのです。
あなたもそう思うでしょう?」
青山は少しだけ間をあけてからわずかにうなずいた。
「では、もうひとつ質問です。
この世界を形づくっているモノはなんでしょうか?」
「この世界って………地球のことですか?」
老婆は深くうなずいてからこう答えた。
「ええ、そうです。母なるこの地球です」
「えーっと……水と鉱石と酸素と二酸化炭素と窒素かな?
あとは、ガスとか放射線とか……」
老婆は神妙にうなずいてからこう言った。
「そのとおりです。
さらに細かく言うとたんぱく質だとかそういう有機質ですね。
そのどれかひとつでも欠落するとこの世界は成り立たなくなるわけです。
偶然にしてはあまりにもできすぎていますよね。
あなたはこれらのものすべてが偶然に産み出されたと思いますか?」
青山はしばらく考えてからこう答えた。
「わかりません」
老婆は満足そうにうなずくとこう言ってきた。
「現代の科学ではこれらのものがすべて偶然の産物だなどと嘘八百を並べ立てていますが、そんなわけはないのです。
すべてはノン・クリフト様が創造なされたのです。
ところで、ノン・クリフト様のことはご存じですよね?」
青山はうなずいた。
「そうです。あのノン・クリフト様です。
偉大なるノン・クリフト様はまず地球を創造なされました。
そして次に神に似せて人類を創造なされたのです。
そう考えればすべての疑問は解決しますよね」
「あの………そろそろ時間が」
青山はポツリとそう呟いた。
すると、老婆は驚いたように目を見開いてこう言った。
「まあ!大変!」
それから、老婆は慌てて肩に掛けた小さなショルダーバッグを開くと中から一冊の小冊子をとりだした。
「とりあえず、これをお読みになっていただければわたくしたちの理念はだいたいご理解いただけるかと」
老婆はそう言うと小冊子を青山に渡してきた。
青山は仕方なくそれを受け取った。
「あっ………どうも………」
「次に訪問するときまでに必ず読んでおいてくださいね。
その冊子を読んでおかないと、これから先のハナシにはついてこれないと思いますから。
それでは失礼します」
老婆はそう言って丁寧に頭をさげると玄関の扉を開け出て行った。
青山は急いでリビングまでいくと、インターフォンのモニターのスイッチをいれた。
モニターには老婆が扉を閉めてエレベーターの方へ向かう姿が映しだされていた。
青山は老婆がモニターから消えるのを確認してからモニターのスイッチをきると、
ホッとしてリビングのソファーに腰をおろした。
さっそく、さきほどの老婆がよこした小冊子をパラパラとめくってみる。
小冊子には、全能の神であるノン・クリフトがどのようにして地球を創造したかや、
ノン・クリフトの起こした様々な奇跡などが詳細に書かれていた。
たった10ページほどの冊子なのに、よくこれだけの内容をつめこんだものだなと青山は感心した。
"(この小冊子の制作者は)もしかしたら広告代理店にでも勤めているのかもしれない"
ふとそんな考えが頭をよぎった。
ありえないハナシではなかった。
やがて、冊子を読むのに飽きると青山は小冊子をテーブルの上に無造作に放り捨ててソファーに背中を預けた。
それから、天井を見つめながら聖女教会について思い巡らせた。
青山は聖女サラにもその息子のノン・クリフトにもどうしても関心を抱けそうもなかった。
そもそも、どうして聖女教会牛神派がノン・クリフトを神などと思えるのか青山にはさっぱり理解できない。
ノン・クリフトなどナルシストでエゴイストな"もっとも人間らしい下等生物"ではないかと青山は思う。
ノン・クリフトのような俗物を神といってしまえば、その瞬間、人間にとって神とはただの俗物の呼称にすぎなくなる。
青山はふと思いついたようにテレビをつけてみた。
チャンネルを報道番組に合わせると、ちょうど鹿原市で行方がわからなくなっている40代の男についての特集が組まれており、
顔を隠した男の同僚らしき人物が涙を浮かべながらインタビューに応じていた。
"(斉藤さんは)よく飲み会の幹事をやったり、冗談を言って職場の雰囲気を和ませたりしてくれてました。
本当にいいヤツでした。
はやく見つかってほしいです"
人前で泣く人間を青山は信用していない。
むしろ、この取材を受けたことでいったいいくらがこのくだらない男に支払われたのだろうかと青山は考えた。
恐らく数十万はわたったに違いない。
それから、異常犯罪心理学者というわけのわからない肩書きのパネリストが
"犯人は愉快犯ではないか。
酔いつぶれている斎藤さんを路上で偶然見つけ、通り魔的にどこかへ連れて行って殺害した可能性が高い"
などと神妙な面持ちでコメントしていた。
それを見た青山は失笑せずにはいられなかった。
"愉快犯?"
"とんでもない"
"これはれっきとした仕事なんだよ"
"新しい世界を創るための"
もっとも、警察は(一般人もだけど)青山が籍を置く例の研究所を永久につきとめることはできないだろう。
なぜなら、あの研究所には有名な大企業の社長だけでなく政界の要人までもが絡んでいるのだから。
もっとも、表向きはある一人の男によって設立されたことになっているが。
その男はユートピアクリエイターというよくわからない肩書をもった男だった。
その男がどこの何者なのか青山は知らない。
ただ、日月(ひげつ)商事の幹部の一人であるということだけは確かな事実だった。
実際に青山が日月商事のサイトにアクセスして調べたのだ。
もっとも、日月商事の幹部リストに名を連ねているというだけで、
サイトにはその男の経歴などはいっさい掲載されていなかったが。
賢い連中は決して目立とうとしない。
どんな小さなほころびであれ、それがいつか自分にとって致命傷になることを知っているからだ。
そんなわけで、青山はその男が日月商事の幹部であるという程度しか知らない。
しかし、あの男の下で働いているだけで月数十万の家賃と生活費とその他の雑多な出費を補うことができ、
なおかつあまった金を貯金するほどの額が手にはいった。
あの男は金を腐るほど持っていた。
それは、たとえ日月商事の幹部だとしても到底持つことのかなわないであろう金額だった。
その金がどこから流れてきているのか青山には知るよしもない。
恐らく、あの男の友人である政財界の要人が莫大な額の金を研究所に投資しているのだろう。
もっとも青山にとってそんなことはどうでもよく、ただ自分と似たような思想をもつ男の下で働きながら
なおかつ贅沢な生活ができるというだけで満足だった。
実際にこれ以上おあつらえむきの仕事があるだろうかと青山は思う。
そもそもあの男と出会うまで青山は、先日の例のサラリーマンと同じような無様な生活を送っていたのだ。
青山はその男に出会った日のことを今でも鮮明に思い出すことができる。
あれは7年前の冬。
とある大国の大統領に黒人が始めて選出されたときのことだった。
「この世界を変えてみないか?」
男はそう言って青山に話しかけてきた。
場所は住宅地の中にある公園だった。
「えっ……?今なんていいました?」
「世界には自由主義という思想がはびこっている。
人々は様々な困難に立ち向かい自由を手にいれた。
その先に希望があると信じて……。
しかし、現実はどうだろう。
人々は豊かさを謳歌する一方で、精神的には何一つ満たされていないのではないかと思う。
欲望というものは留まることを知らずどんどん膨れ上がっていくものだからな。
そこには終わりというものがないのだ。
結局、人間は自由主義という幻想を抱きながら現実は目の前にぶら下げられた
肉の塊を追いかけるただの動物になりさがってしまったのだよ。
今の人間は、人間としての尊厳が著しく損なわれてしまっている状態にある。
そこで私は、人間が人間としての尊厳を取り戻すために新しい世界を創造しようと思っている」
青山は男の顔を見たまま釘付けになってしまった。
と言っても、男の発言があまりにも荒唐無稽だったからではない。
むしろ、男が発言したことと全く同じことを青山も考えていたためだ。
男は青山の目を真っ直ぐ見つめるとこう言った。
「キミもまったく同じことを考えていたのだろう?
違うかね?」
まるで心を見透かされているようで、青山が呆気にとられて何も言えずにいると男はこんなことを言ってきた。
「そんなことはキミの目を見ればわかる。
どうだ?
キミも私と一緒に新たな世界を創造してみないか?」
青山はゆっくりとうなずいてみせたーー
青山はソファーから立ち上がると窓辺へと移動した。
30階建てのマンションの26階。
4LDKの広い部屋で家賃は月ウン十万はする。
ふと先ほどの老婆の演説の一節が脳裏をよぎった。
"偉大なるノン・クリフト様はまず地球を創造なされました"
"そして次に神に似せて人類を創造なされたのです"
青山は、そう説く老婆の真剣な顔を思い出しながら一人でほくそ笑むとこう呟いた。
「新しい世界を創造するのは神でもなければクリフトでもないさ」
それから青山は眼下に広がる都の街並みを見おろした。
「ぼくらだよ」
マンションの26階から眺める都の風景は悪くない眺めだった。


それから、数週間は何事もなく平穏な日々が続いた。
しかし、平穏ということはすなわち何も物事が進展していないということでもある。
もっとも、この前公園で出会ったあのなんとかいうサラリーマンのような人種にとっては、
平穏こそが至高でありなによりも渇望しているものなのだろうが。
青山は今日も鹿原から伊賀野まで夜通し歩いたが、めぼしい獲物は見つからなかった。
サラリーマンの失踪事件がメディアなどで大々的に報じられて以降、
人々は仲間を屠殺された家畜のように神経質になっているようだった。
深夜の遅い時間に酔いつぶれた酔っ払いが一人でふらついているようなことはなかったし、
夜遅くまで残業していた女性会社員が一人で帰宅するということもなかった。
まだ殺されたと確定してるわけではないのに臆病なものだな、と青山は思った。
一人だけチンピラのような人間に出会ったが素材が悪かったので手出しはしなかった。
だれかれ構わず手当たり次第に研究所に送りこめばいいというものでもないのだ。
結局、なんの収穫もないまま伊賀野から鹿原市のマンションまで青山が帰ろうとしたとき
背後から声をかけられた。
「おい、そこのスーツ着たの。
ちょっとハナシを聞かせてもらおうか」
青山が振り返ると、そこには茶色い革のジャケットにジーンズというイデタチの一人の男がいた。
年齢はだいたい40才ぐらいだろうか。
髪を短く刈り上げ、濃くて形のいい眉毛と大きくて迫力のある目を持っていた。
中堅俳優あたりにいそうなハンサムな顔立ちだった。
青山は怪訝な表情でこう尋ねた。
「はい。なんでしょうか?」
男は青山のそばまで近寄ると、ジャケットの胸ポケットから
警察手帳をとりだし、青山につきつけた。
「今ここで何をしていた?」
青山は即座に目の前にいるこの男が私服警官であることを察知した。
男は疑わしげな視線を青山に向けていた。
青山は咳払いするとこう答えた。
「会社からの帰りですよ。どうしてですか?」
「身分証明書を提示してもらおうか」
青山は胸ポケットから運転免許証をとりだすと男にわたした。
男は運転免許証と青山の顔を交互に見ながらこうたずねた。
「ここで何をしていたんだ?」
「会社の帰りですよ」
「こんな遅い時間にか?なんという会社だ?」
「日月(ひげつ)商事の一二三(ひふみ)研究所って言えばおわかりになりますでしょうか?」
青山は男の目を見つめながらそう言った。
男は眉間にシワをよせるとこう訊ねてきた。
「日月商事ってあの?」
「はい、そうです。あの日月商事です。
日月商事は世間体はいいですが内情はぐちゃぐちゃでしてね。
サービス残業なんか日常茶飯事なんですよ。
今日もばっちり20時間仕事をしてきました。
なんなら名刺を見せましょうか?」
男はうなずいた。
青山は胸ポケットから名刺をとりだすと男に見せた。
男は名刺を子細に検分してから青山にかえした。
「そうか…………わかった。
いや、日月商事に一二三研究所なるものが存在するとは知らなかったものでね。
しかし、日月商事とこことでは大分距離があるようだが?」
「日月商事の一二三研究所は伊賀野にあるんですよ。
私の家は鹿原市にあるのでこれから歩いて帰宅するところです。
電車はもう動いてないですからね」
男はしばらく腕を組み何ごとか考えてから再びたずねてきた。
「いつもそんなに遅くなるのか?」
「まあそうですね。何しろ忙しい会社ですから」
「9月18日の夜は何時頃帰宅したんだ?」
男はさりげない風を装いつつ、恐らく一番知りたいであろう質問を投げかけてきた。
青山は表情を変えることなくこう答えた。
「だいたい午前3時~4時ごろですかね。
そういえばあの夜は鹿原市で失踪事件があったんでしたよね?
もしかしたらあの事件の捜査をしているんですか?」
男は青山をジロリとにらみつけるとこう言った。
「そんなことをお前が知る必要はない」
「まあ、確かにそうですね。
知る権利は誰にでもありますけど、いまはどうしても知りたいってわけではありませんし」
青山はしたり顔でそう言った。
もしかしたら、殴られるかもしれないと思ったがそうなったらそうなったでだいぶこちらが有利になる。
しかし、予想に反して男は青山の挑発には乗ってこなかった。
意外と冷静なのかもしれない。
「もう少しだけ詳しい話を聞かせてもらおうか。
9月18日の夜にお前はどこで何をしていたのか?
そして、なぜ帰宅がそんなに遅くなったのかを」
「さっきも言ったとおり残業ですよ。
あの日の夜も仕事がとても忙しかったから帰宅が遅くなったんです。
家について時計をみたら4時すぎててビックリしました。
もっとも、翌日のニュースで鹿原で失踪事件が起きたと聞いたときはもっとビックリしましたけどね。
本当に物騒な世の中ですよね。
私の家の近所で起きた事件だから不安です」
男は一度だけうなずくとさらにこう質問してきた。
「つまり、9月18日の夜は遅くまで残業していて家についたのが午前4時だったというわけだな。
日月商事から家までは真っ直ぐ帰宅したのか?」
「帰宅途中にスターフォーチュンに立ち寄りました。
急に温かい飲み物が飲みたくなったので。
確かあのときは3時半ごろだったかな。
あまりはっきりとは覚えてないですけど」
警察手帳を持った男は眉間にシワを寄せて何事か考え込むと、しばらくしてからこう訊ねてきた。
「おまえがスターフォータュンに立ち寄ったことを証明するものはあるか?」
「スターフォーチュンのレシートなら持ってますよ。
見せましょうか?」
男は黙ってうなずいた。
青山はポケットから財布をとり出すと、雑多な紙束のなかからスターフォーチュンのレシートを抜き出した。
「僕、家計簿とかつけないんでレシートや領収書を一々取っておくんです。
そうすれば一月のうちにどれだけ出費したのか一目でわかりますからね」
男は青山の手からレシートを取りあげると、真剣な眼差しで目をとおした。
やがて、レシートを青山に返すとこう言った。
「なるほど。つまり3時半ごろにはスターフォーチュンにいたわけだな?」
「レシートに書いてあるとおりです。
9月18日の午前3時半ごろ、私はスターフォーチュンでホットキャラメルを飲んでいました」
男は青山をジロリと睨むとこう言った。
「俺はお前の証言を聞いているんだが?」
「それなら先ほど説明したはずですけど」
男は怒気を含んだ口調でこう言った。
「再確認してるところだ。
一応釘を刺しておくが、そんな紙きれなんかいくらでも偽造できるんだからな。
参考にはなるが決定的な証拠にはならん」
「わかりました。
では、もう一度証言させてもらいます。
私は9月18日の午前一時すぎまで働いて、会社を出てからはそのまま帰宅するつもりでしたが、途中で疲れたのでスターフォーチュンに立ち寄りました。
スターフォーチュンにはだいたい30分ぐらいいましたかね。
スターフォーチュンを出たのは3時半を過ぎていたと思います。
そこからは家まで真っ直ぐ帰りました」
警察手帳を胸ポケットにしまいながら男はうなずくとこう言った。
「長いことひきとめて悪かったな。もう帰っていいぞ」
「では、ごきげんよう」
青山はそういい残すとそのまま帰宅した。
帰宅したときに時計を見ると時針は午前3時をさしていた。


例の牛神教の老婆が青山の家にやってきたのは翌週の日曜日の午前10時のことだった。
その日の老婆は、シルクのワンピースの上にピンク色のカーディガンを羽織り
つばの広い白いチューリップ帽を被っていた。
「こんにちは」
老婆はモニター越しにあいさつしてきた。
「こんにちは」
青山は笑顔でそう答えた。
「先日、お訪ねした牛神派の者ですが、小冊子はちゃんと読んでいただけましたでしょうか?」
青山は口もとに微笑を浮かべながらこう答えた。
「ええ、読ませてもらいましたよ」
「では、わたくしたちの理念はだいたいご理解いただけましたね。
今からご入会の手続きの方法等を説明したいのでドアを開けてもらってもよろしいですか?」
「いや、ちょっと待ってください。
確かにあなたたちの理念は理解できました。
ただ、あいにく私には牛神教の理念は到底受け入れがたいものでしてね。
そもそも、ノン・クリフトが神だなんてありえないですよ。
ノン・クリフトは色情魔であり悪魔に魂を売った人間の一人です。
いや、悪魔そのものというべきでしょうか」
青山がそう言った瞬間、モニター越しに映る老婆の表情がさっと強ばるのがみえた。
「あなたはいったい何を言ってらしゃっしゃるの?」
今までの猫をかぶった声はなりを潜め、かわりに年相応の嗄れた声で老婆はそう言った。
「クリフトは悪魔だと言ったんですよ。
実際、あの俗物以上の悪魔がこの世にいますか?
隣人を愛せ?愛によって人間は救われる?
そんなのハッタリです。
そもそも愛があれば争いはなくなりますか?
愛によって人間は本当に救われますか?
愛の重要性を説く聖女教徒が聖女教を世界中に布教した結果どうなりました?
かえって争いの絶えない世の中になったのではないですか?」
老婆は金切り声でこう言った。
「クリフト様は悪魔なんかじゃないです!
聖女教については私にも思うところはあります。
聖女教は聖書を歪曲して間違った教えを広めていますからね。
ですから、真実の伝導者である私たちのような牛神派が誕生したんです。
聖女教の誤った教えをタダスためにです。
そもそも、聖女教の犯した罪がそのままクリフト様の罪になるわけではありません。
あなたが言ってるのはただの暴論よ」
「でも、ノン・クリフトの説く"愛の教え"が聖女教を生んだのは事実ですよ。
そして、大きくなった聖女教が他の宗教を排除するためにあの手この手で殺戮を繰り返してきたのも。
卍軍の遠征なんかその最たる例です。
もちろん、愛を全否定するつもりはないです。
愛というものが人間にとって大事なもののひとつであることは認めます。
ただ愛にはトゲのようなものが含まれていると思うんです。
ほら、よく言うでしょう?
綺麗なバラにはトゲがあるって。
見た目は美しいけど触れるとトゲが刺さる。
愛はまさにそのとおりなんです。
いや、愛はバラよりもっとヒドイです。
愛とはいわば、美しい見かけとは裏腹に猛毒を含んだペラドンナのようなものです」
老婆は睨み付けるような鋭い目つきでモニター越しに青山を見ていた。
その鋭い目つきのなかには激しい憎悪が見てとれる。
"まさにこれだ"と青山は思った。
狂信者は自分の信じるもの以外は絶対に存在してはならないと考える。
それこそが聖女教の説く"愛の教え"のなかに含まれた猛毒なのだ。
「何か反論することはありますか?」
老婆は怒りに身を震わせながらこう言った。
「もう結構でございます。
小冊子を返していただけますか?
あなたにこれ以上クリフト様をケガされたくありませんので」
青山はリビングに移動すると、テーブルのうえに置きっぱなしになっている小冊子を拾い上げた。
それから、玄関まで再び戻ってくると老婆に渡した。
「それではごきげんよう」
青山は会釈をしながらそう言った。
老婆は小冊子をひったくるようにして奪うと、
青山の顔さえろくに見ずにそそくさと玄関の扉を開けて出ていった。
老婆が消えた途端、部屋のなかに静寂がおとずれた。
だがしかし、ここでコトをスンナリ終わらせるつもりは青山にはサラサラなかった。
青山はすばやくインターフォンのそばまで移動すると、モニターのスイッチをいれて外の様子を観察した。
モニターにはエレベーターへ向かう老婆の姿が映し出されていた。
青山は音を立てないようにそっと(しかも小さく)扉を開けると老婆の様子を観察した。
老婆は意外としっかりした足取りでエレベーターの前まで歩いていくと、
そこで立ち止まってエレベーターのボタンを押した。
青山は老婆がエレベーターのボタンを押すところまで確認してからすぐさま扉を閉めた。
そして、扉に背をあずけエレベーターがこの階にきて老婆がエレベーターに乗るところまでを頭のなかに思い描いた。
休日でエレベーターの利用者が多いことを考えると、老婆がエレベーターに乗るまでだいたい5分か10分といったところだろう。
7分経つまで青山は扉に背を預けて腕組みしながら辛抱強く待った。
やがて、7分が経過しそっと扉を開けてもう一度外の様子を窺った。
老婆の姿は既になかった。
エレベーターに乗ったようだ。
青山は扉を開けて外にでると、急いでエレベーターの前まで行き
老婆の乗ったエレベーターがどこで止まるかを確認した。
エレベーターはどんどん下に降りていきやがて1Fで止まった。
青山はすばやくエレベーターの前まで行き、エレベーターを呼ぶボタンを押すとエレベーターの到着を待った。