フェンリルのブログⅡ

小説とガーデニングが好きな変人のブログです

ペラドンナ~第五章~

「きゃーーーーッ!!!人が倒れてる!!!」
杉山恵子(すぎやまけいこ)は、血まみれで倒れている男を発見すると思わずそうさけんでいた。
マンションの横の植え込みのあたり。
そこに、黒いジャケットに黒いスラックスという身なりの男が一人倒れていた。
年齢はだいたい20代後半~30代前半ぐらいだろうか。
肩まで伸びた黒い髪。左耳に光る銀色のイヤリング。
そして、背中には銀色のナイフが深々と突き立っている。
これは"殺人だ"と恵子は即座に思った。
なぜなら、男は"背中からナイフで心臓を刺されている"のだから。
自分でもビックリするほどの大声を出したためか、たちまち周囲に人が集まってきた。
集まってきた人々は、植え込みのソバに倒れている男を見るなり、次々と悲鳴をあげはじめた。
「あっ!はやく警察に電話しなくちゃ!!!」
恵子は、慌てて肩に提げた白い牛皮のハンドバッグからスマートフォンを取りだした。
それから、通話画面に切り換えて110番を押し耳にあてがう。
三回ほどコール音が鳴り響いたあと、20代と思われる若い男が電話口にでた。
「はい。こちら緊急通報専用窓口です。
何がありましたか?」
こういうときどう説明すればいいのかわからず、恵子は一瞬戸惑った。
「もしもし?」
ほとんど間をおかず、電話の主ははっきりとした声で再度たずねてきた。
恵子は、とりあえず今みている光景をそっくりそのまま電話の主に伝えることにした。
「あの………マンションの前で人が倒れているんですけど。
刃物で背中を刺されて血まみれの状態で。
心臓を刺されているので亡くなっていると思います。
場所は鹿原市にあるカバラ・シオン・パークハウス前です」
「まず、あなたの名前と住所と年齢を教えてください」
電話の主は落ちついた声でそう告げた。
「杉山恵子、29歳です。今は三輪区に住んでいます」
「三輪区の杉山恵子さん………ですね?」
「はい」
「…………わかりました。
すぐそちらにパトカーと救急車を向かわせますので、その場で待機していてください」
電話の主はそう言うと通話を切った。
恵子はスマートフォンをハンドバッグにしまいながら、これからどうしようかと考えた。
そもそも、恵子は彼に会うためにこのマンションに来たのだ。
彼の名前は青山正哉と言った。
付き合い始めてから半年が経つ。
あまりパッとしない顔立ちだが、お金持ちでなんでも好きなものを買ってくれたし、
おまけに頭もそこそこよくて気がきくので恵子にとっては大切な人だった。
そんな彼のマンションの前でまさか殺人事件が起ころうとは。
彼は無事なのだろうか?
恵子は、今すぐにでも彼に電話したい衝動に駆られた。
でも、今はまだ我慢することにした。
警察に事情を聞かれたときに、あらぬ疑いをかけられないとも限らなかったからだ。
ーーパトカーと救急車は恵子が通報してから10分ほどで到着した。
救急車からは、四人の男が担架を持って出てきた。
全員ヘルメットとマスクをつけているので顔はよくわからない。
恐らく、全員30代~40代ぐらいではないだろうか。
パトカーから出てきたのは二人の警察官だった。
一人は軟派な雰囲気のスラリとした若い男。
もう一人は、いかにも熟練といった感じのガッシリした体格のコワモテの男だった。
「はいはい、どいてどいて」
若いほうの警察官が、野次馬に向かってそう言うと、手で追い払うようなしぐさをしてみせた。
すると、野次馬たちはまるで牧羊犬に追い立てられる家畜のように、ぞろぞろと隅のほうに移動し警察官と救急隊に道を開けた。
二人の警察官は、倒れている男のソバまでくるとさっそく現場検証をはじめた。
救急隊のほうは、担架を男のソバに置き頬を叩いたり、声をかけたりしていた。
しかし、そんなことをするまでもなく男は既に亡くなっていると恵子は断言できた。
なにしろ、男は心臓をナイフで貫かれているのだから。
恵子はかつて看護婦として働いていたことがあるので、人の体のどこに心臓があるのか正確に把握している。
恐らく即死だったろう。
ただ、重い病のように苦しみ抜いた果てに死ぬよりは、多少マシな死に方と言える。
もっとも、これはあくまで数年間医療に従事してきたイチ看護婦としての見解にすぎないが。
しばらくして、警察官は現場検証を終えるとパトカーの無線を手にとって何やら話しはじめた。
「シオン・パークハウス前で遺体を確認。
背中から凶器で刺されてる。
他に目立った外傷はないため、恐らくこれが致命傷になったと思われる。
三十代ぐらいの男性で身許は不明」
無線機の雑音が消えるのを待ってから警察官は続けてこう言った。
「それから、遺体のそばに拳銃が落ちてる。
25口径のリボルバー
ジャケットのしたには防刃製と思われるチョッキを着用」
拳銃に防刃チョッキ?
被害者はどうしてそんなものを所持していたのだろうか。
誰かに命でも狙われていたのだろうか?
それとも、どこかに襲撃する予定だったのか。
いずれにしても、この男がまともな人間でないことは明白だった。
そして、そんな男の死体が、彼の住むマンションの目の前で発見されたことが何より不気味に思えた。
「うん、うん、わかった」
そう言うとコワモテの警察官は無線を切った。
それから、胸ポケットからメモ帳とペンをとりだすと、恵子のほうに近づいてきた。
「あなたが遺体の第一発見者ですか?」
コワモテの警察官は恵子の前までくると、恵子の目を真っ直ぐ見据えながらそう質問してきた。
野次馬の視線が一斉に恵子に集まる。
恵子は、野次馬の突き刺すような冷たい視線をかわすように警察官のほうを振り向くと、「はい。そうです」とこたえた。
「遺体を発見したときの状況をできるだけ詳しく教えていただけますか?」
コワモテの警察官は近くでみると意外と若くみえた。
形のいい眉に大きくて鋭い瞳。
一昔前の刑事ドラマとかに出てきそうな、彫りの深いハンサムな顔立ちをしている。
恵子は「はい」と答えると、遺体を発見したときの状況について説明した。
「マンションについたのは、だいたい午前7時ごろでしょうか………。
マンションに入るときに植え込みの陰に人が倒れているのを見かけて。
不審に思って近づいてみるとこのありさまで………。
遺体をみるとつい悲鳴をあげちゃいました。
こういうことってなかなかないですからね。
私が悲鳴をあげると、通りを歩いていた人たちも遺体に気づいたようで次々と悲鳴をあげはじめました。
多分、ほとんどの人が血まみれで倒れている人間を見たことがなかったんだと思います。
それから、私はすぐに110番通報しました」
「遺体を発見したのは午前7時ごろで間違いないですね?」
コワモテの警察官がメモ帳にペンを走らせながらそう訊き返してきた。
「間違いないです。
鹿原駅で電車を降りたときに、チラッと駅の構内の時計をみたら、ちょうど6時55分ごろでしたから」
警察官は鋭い視線を恵子に向けたまま、メモ帳をペンの尻の部分でついていた。
それから、何か思いついたような顔をするとこうたずねてきた。
「あなたはどうして被害者が死んでいるとすぐに判断できたんですか?
背中をナイフで刺されただけでは、亡くなっているという根拠にはならないでしょう」
恵子は信じられないという顔をするとこう答えた。
「どうしてって…………心臓にナイフが刺さっていたんですよ?
心臓を刺されたら普通は死ぬでしょう」
「いや、ですから。
どうしてあなたには被害者が心臓を刺されているとわかったんですか?
心臓の正確な位置なんて普通はわからないのではないですか?
植え込みのそばに倒れているのをただ遠くから見ただけでは、なおさら」
警察官がケゲンな顔でそうたずねてきた。
なぜ被害者を見ただけで心臓を刺されているとわかったのか。
その問いにたいする答えは単純明快だった。
なぜなら、恵子は数年前まで看護婦として働いていたのだから。
看護婦として働いていたころは、レントゲン写真を毎日のように見ていたので、
看護婦を辞めた今でも、体のどの位置に心臓があるのか正確に把握することができる。
しかし、恵子はなるべくなら看護婦だったころのことは話したくなかった。
"あるできごと"があって以来、あの頃のことは思い出すだけでツライ気分になるのだ。
「それは……………黙秘します」
警察官はメモ帳をペンで叩きながら三回ほど大きくうなずくとこう言った。
「黙秘ねぇ。
まあ話したくないっていうなら話さなくてもいいんですけどね。
でも、そのぶんちょっとややこしいことになりますよ。
たとえば、あなたには今回の事件の重要参考人として警察署に同行してもらうことになるかもしれない」
恵子は、あわてて首をふるとこう答えた。
「私は事件とは関係ありません!
どうしてそんなこと言うんですか?」
すると、警察官は「これはあくまで例えばのハナシですけどね」と前置きしたうえで、こんなことを話しはじめた。
「なぜ心臓を刺されて死んでいるとあなたにわかったのか。
そして、なぜその理由を黙秘するのか。
それは、あなたが犯罪に加担したか、あるいは犯罪を犯した人物そのものだからと疑われても無理はないでしょう。
普通なら、まず人が倒れているのを見かけたらその人に声をかけるものです。
それから、意識があるなしに関わらず110番ではなく119番に通報します。
人が倒れているのを見かけたときは、まず救急車を呼ぶのが鉄則ですからね。
しかし、あなたはいきなり110番に通報した。
これはどう考えても不自然です。
まるであなたには、被害者が誰かに殺されたことがわかっていたように思えます」
相変わらず警察官の鋭い眼差しが恵子の瞳を捉えて離さない。
恵子は、その眼光を見つめることに耐えきれなくなって警察官の眼差しから視線をそらした。
そして、ゆっくり首を横に振るとこう答えた。
「被害者は背中から刃物で心臓を刺されていたので他殺と判断しました」
警察官は「ああ、そうか」と言うと、二度ほどうなずいた。
「どうして心臓を刺されていると判断したのかについては黙秘します。
私にもいろいろ事情があるんです。
たとえ他人からみたら些細なことにみえても、私にとってはかなり深刻な問題です。
できれば過去のことは一切話したくありません」
実際、あの頃のことは恵子にとっては二度と思いだしたくないことだった。
恵子は、あの頃の記憶を脳内のブラックボックスに封じ込めたまま、
誰にも開封されないよう鎖でぐるぐる巻きにして、南京錠で鍵をかけてしまったのだ。
仮にもしその封印が解かれた場合、そのトラウマから立ち直るまでにかなり苦労することになる。
もしかしたら、自殺するかもしれない。
それほど、恵子にとって看護婦だった頃の思い出はツライものなのだ。
禁忌といっていい。
「でも、私が事件とはまったくの無関係だということは断言できます。
そもそも、私はこの人と面識すらないんですよ。
どうして面識もないような人を殺さなければならないのでしょうか?」
「あなたが被害者と接点があるかないかについては、あとでじっくり調べます。
今、問題なのはあなたがどうして遺体を発見したとき、ナイフで心臓を刺されているとすぐにわかったのかということですよ。
そして、なぜあなたはその理由を黙秘しているのか。
このまま黙秘を続けることで、起訴されることになっても本当にいいんですか?」
依然として、警察官の目は恵子の目を捕らえて離さない。
その瞳からは、獲物を狩る前の肉食獣のような冷酷さと辛抱強さが感じとれた。
まるで、少しでも隙を見せたらすぐにでも獲物に襲いかかり、柔らかな喉笛に鋭い牙を突き立てようとするみたいな。
「構いません」
恵子は警官の鋭い眼光に気圧されず、きっぱりそう言いきった。
そもそも、恵子がやってないという証拠ならいくらでもあるが、やったという証拠は何もないのだ。
証拠がない以上、有罪にすることは不可能だろう。
警察官はため息をつくと、ようやく恵子の目から視線を反らした。
ほんの一瞬だけ。
しばらく、空を見上げてから再び鋭い視線で恵子を射すくめる。
「一応、忠告しておくが立件されれば君は法廷に立たなければならなくなるぞ。
法廷に立てば、君がかたくなに黙秘している過去のことは洗いざらいすべて世間に知られることになるだろう。
たとえ君が黙秘していてもだ。
法治国家においては、いつまでも事実を隠ぺいしておくことなんかできないんだ」
"そうか"と恵子は思った。
仮にもし、自分が刑事告訴されればマスコミの餌食になるのは火をみるより明らかだった。
マスコミは、恵子の過去のことや当然のことながら青山との関係まで洗いざらいすべて報道するだろう。
ブラックボックスの開封。
それだけはなんとしても避けなければならないことだった。
恵子は深いため息を一回だけ吐いてから、警察官の目をみるとこう言った。
「…………わかりました。
過去のことはあまり人に話したくないのですが、濡れ衣を着せられるのは不服なのでできる限りのことは話します」
警察官は恵子の目を見つめながら黙ってうなずいた。
「二年ほど前まで私は"鹿原総合病院"で看護婦として働いてました。
もちろん、医療系の大学を出ていますから心臓がどの位置にあるのかや、
どの程度の傷が致命傷でどの程度の傷なら助かるのかなど、ある程度は判断できます。
今回の場合ですと、背中から心臓をナイフで深く刺されていたので完全に亡くなっていると判断しました。
心臓を凶器で刺されたら即死しますからね。
看護婦として働いていたころ、実際に心臓を刺されたという患者さんを何人か見てきましたが、助かった人は一人もいませんでした」
「なるほど。以前は看護婦として働いていたんですね。
だから、被害者が背中からナイフで心臓を刺されているのを発見したときには、既に亡くなっていると判断できたと」
恵子はうなずきながら「そうです」と答えた。
「ところで、このマンションには何のために立ち寄ったんですか?
さきほど、用事があってマンションにきたというようなことを話されていましたけど」
「彼氏に会うためにこのマンションに来ました。
今日は彼氏とデートする予定だったんです」
「ということは、彼氏さんはこのマンションに住んでいるんですね。
名前はなんというんですか?」
恵子は警察官の顔を怪訝な表情で見つめながらこう答えた。
「青山正哉といいます。
このマンションの26階に住んでいます」
警官は三回ほどうなずくとメモ帳にペンを走らせた。
それから、顔をあげ再び訊ねてきた。
「彼の年齢と職業は?」
「職業はサラリーマンで今年で30になります」
「勤めている会社の名前とかもできれば教えてほしいですね」
「あの………さきほどから立ち入ったことを聞きすぎではないでしょうか?
警察官ならプライバシーの侵害を犯してもいいなんてことありませんよね?」
恵子はついそう訊ねてしまっていた。
遺体の第一発見者の自分のことならまだしも、今回の事件とは無関係な彼のことを訊かれることに我慢ならなかったのだ。
すると、警察官は太い眉を寄せながらこう答えた。
「私はただ与えられた職務を遂行しているだけです。
黙秘したいというならそれでも結構ですよ。
あとで独自に調査させてもらいますから」
警察官は相変わらず鋭さのこもる眼光で恵子を見つめながらそう言った。
恵子は、あきらめてため息をつくと「日月商事に勤めています」と答えた。
「日月商事?日月商事の社員が平日に休んだりするんですか?」
まるで、日月商事の社員だったら休まず働くのが当然とでもいいたげな警察官のいいくさに、恵子は腹が立った。
しかし、腹を立てている様子をおくびにも出さず、恵子は「デートのために有給をとったみたいです」と答えた。
「あっ、そうか。有給を使ったのか」
警官は何度もうなずきながらメモ張にペンを走らせた。
「じゃあ、もう一度確認するけどあなたのボーイフレンドの名前は青山正哉。
年齢は30歳。日月商事勤務。ってことで間違いありませんね?」
同じことを二度訊ねられるのは苦手だったが、恵子は表情を変えることなくただ「はい」とだけ答えた。



ーー1時間ほどで恵子は解放された。
のちに現場検証の結果、男は防刃チョッキの上からサバイバルナイフで刺されていたことがわかり、
女性の犯行はまずあり得ないということが判明したからだ。
しかし、恵子は言いようのない漠然とした不安感に襲われていた。
というのも、彼と連絡がつかないのだ。
いくらケータイに掛けても"お掛けになった電話は……"という定型文を読み上げる機械的な音声が再生されるだけだった。
この音声が再生されるということは、ケータイの電源を切っているか、あるいは電波の悪いところ(山のなかとか)にいるかのどちらかだ。
「繋がりましたか?」
ソバで恵子の様子を見ていた若いほうの警官がそう訊ねてきた。
恵子は若い警官のほうへ顔を向けるとクビを横にふった。
「彼、どうしちゃったんでしょうね?」
若い警官は表情を曇らせながらそう呟いた。
「わかりません」
恵子としてもそう答えるより他ない。
もう一度かけてみるが、やはりダメだった。
「繋がりませんか?」
警官が恵子の顔を覗きこむようにしてそう訊ねてくる。
警官の目は心配のいろより、どちらかといえば好奇のいろのほうが濃いように感じられた。
恐らく、今回の殺人事件と何か関係があるかもしれないと踏んでいるのだろう。
実は、恵子のほうもさきほどからそう思いはじめていた。
だが、彼が人を殺すということはありえないことだ。
そもそも、彼には人を殺す度胸も理由もない。
となると、事件に巻き込まれた可能性が高い。
そう考えると、恵子はいてもたってもいられなくなった。
「私、ちょっと彼の家に行って様子を見てきます」
恵子は若い警官にそう告げるとマンションのなかへ入っていった。
「僕も行きますよ」
若い警官はそう言って恵子の後を追ってきた。
恵子は警官のほうを振り向くと「ぜひ」と答えた。
恵子は、マンションにはいりエレベーターの呼び出しボタンを押す。
エレベーターが到着するのを待つ間、若い警官がこんなことを訊ねてきた。
「青山さんは普段からケータイの電源を切っているんですか?」
「いいえ。そんなことはありません。
仕事中も電源を切っているということはまずないです」
警官は眉間にシワを寄せながら「変ですね」と言った。
「もしかしたら充電中なのかもしれません。
それか、寝ているのかも………」
恵子はそう言いながら、内心ではそんなことは絶対にあるはずがないと思っていた。
そもそも、今日デートしようと言いだしたのは青山のほうなのだ。
しかも、青山がそう言ってきたのは昨日のことである。
メールで"明日は久しぶりに休みがとれたからどこかへでかけよう"と。
デートのときに、青山がそんな失態をおかすことなど今まで一度もなかった。
そういうところは、抜かりないタイプの男なのだ。
「そうかもしれませんね」
若い警官はこれっぽっちも納得していないという表情でそう答えた。
やがて、エレベーターが到着して扉が開くと恵子と若い警官は乗り込んだ。
恵子は26Fの階数ボタンを押した。
扉がゆっくり閉まりエレベーターが動き出す。
恵子はそのままエレベーターの操作パネルの前に佇んだ。
若い男とエレベーターのなかで二人きりというのは、妙に落ち着かない感じのするものだった。
はからずも今日は彼とデートをするため、ばっちりメークし、黒くなりかけた髪も栗毛いろに染めなおしたばかりだった。
服装はムネのところにリボンがついてる白いニットのワンピース。
そして、下は淡いブルーの無地のスカートというイデタチ。
恵子は今年で29歳になる。
そろそろ結婚してもいい年頃だ。
もちろん、青山とは何度もそういうハナシになったが、そのたびに青山に"結婚する気はない"と言われた。
彼はどういうわけか、結婚するということにたいしてヒドク抵抗があるようだった。
どうして結婚してくれないのか恵子には理解できなかった。
彼だってもうイイ歳なのに。
自分のほかに女でもいるのだろうか?
そんなことを恵子がぼんやり考えていると、警官が不意にこんなことを訊ねてきた。
「ところで、昨晩。このマンションの近くで起きた事件のことはご存知ですか?」
恵子はビックリした表情でこうきき返した。
「えっ?事件ですか?
いや、知らないです。何かあったんですか?」
「そうですか。
パトカーが出動したりして結構な騒ぎになったんですけどね………。
いや、知らないならいいんです」
いいようのない胸騒ぎを覚えたので、恵子はこうたずねた。
「それって何時頃のことですか?」
「昨晩の午前1時頃かな………。
車の下に発煙筒が投げ込まれましてね。
別にそのこと自体は大したことじゃなかったんだけど、その車をいろいろ調べたところ盗難車だったことがわかりまして。
今でも発煙筒を投げ込んだ人物と、盗難車を持ち出した人物を捜索中なんですよ」
「へぇ。そうだったんですか。
全然知りませんでした」
まさか、彼のマンションのすぐ近くでそんな事件が起きていたなんて。
恵子はいよいよ彼のことが心配になってきた。
何しろ、彼が最後に恵子にメールしてきたのは昨晩の午前1時ちょっと前のことなのだ。
つまり、車の下に発煙筒が投げ込まれたのとほぼ同じ時刻にメールしてきたということになる。
彼が事件に巻き込まれた可能性がより一層現実味を帯びてきた。
ほどなくして、エレベーターは26階に到着した。
恵子はエレベーターの扉が開くと、警官より先にエレベーターの外へ出た。
警官がエレベーターから降りるのを待っていると、警官は「先へ行ってください」と言った。
恵子は、うなずくと駆け足で青山の部屋の前まで行き呼び鈴を鳴らした。
扉の向こうがわで"ピンポーン"という今の切迫した状況を考慮すれば、いささか間の抜けた感じのする音が鳴り響く。
数秒待つが応答はない。
恵子はふたたび呼び鈴を鳴らしてみた。
が、やはり応答はなかった。
「出ませんか?」
いつの間にか恵子のソバにきていた警官が、やや表情を強ばらせながらそう訊ねてきた。
警官の瞳は鋭く険しいものになっていた。
その眼光は肉食獣が獲物を見つけたときのそれだった。
恵子はその瞳を見てゾッとしながらこう言った。
「あの………ひょっとしたらまだ寝ているのかもしれません。
もう一度呼び鈴を鳴らしてみます」
恵子がそう言って呼び鈴に手を伸ばそうとした。
が、そのとき。若い警官は恵子の手を遮ると「青山さーん!いますかー?」と叫んでドアノブに手をまわした。
警官がノブをまわすと、あっさり扉は開いた。
てっきり鍵がかけられているものとばかり思っていた恵子はやや拍子抜けした。
しかし、それと同時に今まで抱いていた不安が今にも現実のものになりそうな気がして、全身が総毛立つのを感じた。
心臓がやたら重苦しい。
"もしかしたら、本当に彼は事件に巻き込まれたのかもしれない"
そんな不穏な言葉が頭をかすめる。
恵子はいてもたってもいられなくなった。
部屋の中へ入ろうとする警官より先に部屋のなかへかけこむと、恵子はまっさきにリビングへ向かった。
なぜリビングに向かったかと言えば、リビングのドアが開きっぱなしになっていたからだ。
彼がリビングのドアを開けっ放しにしておいたことなど今まで一度もない。
心臓の鼓動がより一層はやくなる。
リビングに入ると、血のニオイとなんとも言えない異臭が鼻をつき恵子は思わず鼻を腕でフサいだ。
それからリビングの中心のあたりに視線を移す。
そこには異臭の元凶と思われるものが転がっていた。
恵子はそれをみると目を大きく見開いた。
心臓が一度だけ大きく脈うつのが感じられる。
それは、喉と腹を掻ききられ白目を剥いた男の死体だった。
「イヤーーーーーーッ!!!」
恵子は悲鳴をあげるとその場で卒倒した。